木原 俊秀

海軍少佐

 

略歴

大正  年  月  日 山口県下関市出身

昭和16年12月 8日 ハワイ真珠湾攻撃

昭和17年11月14日 海軍兵学校卒業(71期)

昭和  年  月  日 扶桑乗り組み

昭和  年  月  日 神通乗り組み

昭和  年  月  日 筑波空/第42期飛行学生指導官付

昭和20年 2月25日 茨城県上空にて敵機と交戦中に戦死(享年21才)

 

敵機動部隊の関東来襲

昭和20年 2月16日、17日と関東地区を空襲した敵機動部隊は、いったん南下して硫黄島上陸作戦

を支援した後、25日に再び北上し関東地区の航空基地と中島飛行機の向上を主に攻撃した。

敵戦闘機の迎撃戦闘に出撃した筑波空・木原俊秀海軍大尉(当時)は、17日の迎撃戦では茨城県石岡

市の上空で敵グラマン七機と交戦し、うち一機を撃墜した記録が同隊の「戦闘詳報」に記録されている。

 

2月25日

25日の再来襲時には大洗港上空で敵グラマン二十機を迎撃したが、午前八時ごろ被弾発火したので

落下傘で脱出、降下中に敵機の機銃掃射を浴びて戦死。

当時、地上からこ戦闘の状況を見ていた茨城県東茨城郡茨城町前田地区の住民の方々は、日本機が

火を吹き搭乗員が落下傘で降下するのを認め救護に駆けつけたが、この若武者はすでに護國の鬼と

化していた。

前田地区の方々はこの勇士の戦死を悲しみ、名も知らぬ若武者の終焉の地に木の墓標を建てて供養

された。永らく搭乗員の氏名は不祥のまま供養が続けられたが、住民のお一人が木原大尉であること

を調べ上げご遺族に通知した。

 

ご両親の墓参

昭和34年10月、山口県下関市からご両親が初めて墓参。

よもや知る術も無かった最愛の息子の終焉の地を前に、ご両親は言葉も無くただ泣き崩れ、同席した地元

の方々もまた涙にくれるばかりであったと云う。

 

木原少佐ご尊父の回想(抜粋)

俊秀の墓は、この家の裏の道を隔てた山裾にあり、道から二段程土を削った上り段で、一坪程を竹矢来

で囲んであります。その奥寄りの中央の土饅頭に木碑が建っており、供養して頂いた塔婆も四・五本木碑

と一緒に束ねてあり、あたりは草木が鬱蒼と茂っておりますが、柵内には草一本生えていませず、新鮮な

御花が供えられ、木碑の前は御線香の燃えさしが一杯でありました。

この何とも有り難い光景を目撃した瞬間、ツーンとこみ上げもう有難涙が止めども御座いません。泣き泣

き見ます木碑の字こそ古びて読み取れませんが、塔婆の字は「木原大尉の霊」と判然と読み取れました。

何時の間にか本家の奥様も出て来ておられ、人前もなく爺婆が声をあげて泣き暮れておりますのを見て、

暫し傍で貰い泣きされる有様でありました。

 

俊秀は今の御墓の五〇米程奥の山の中に墜落したのだそうですが、道端に建てておけば通りすがりの人

でも詣って戴けるだろうし、香華を供えるにしても楽だとのお心遣いから、彼の子の血で染まった土を全部

さらえて現在の御墓の下に葬って下されてあるのだとのことでした。

俊秀の墓にしましても、彼の子の遺骨は小さい紙片が一枚あったたげで当方の御墓には何も納まってい

ませぬのに比べ、彼の子の血液で染まった土が葬ってある現地のお墓に自然親近感を覚え何となく離れ

難く思うので御座いましたが、(中略)おそらく永久のお別れになるのだろうと思えばただやるせない程悲

しいので御座いました。

 

昭和34年にご両親の手により現在の石碑が建立された。

 

前田地区(墜落地点)

茨城県東茨城郡茨城町

故海軍少佐 木原俊秀之碑

 

故海軍少佐 木原俊秀之碑

 

本土防空

更新日:2009/12/12