廣瀬 治

陸軍大尉

 

西原地区 阿寺沢

山梨県北都留郡上野原町

写真および碑文の提供 K-N様

大尉廣瀬治戦死地

由緒碑 碑文(表)

日米平和交渉の決裂により、米英との開戦に発展、昭和十六年十二月八日真珠湾奇襲に始った

太平洋戦争は、当初有利に展開したものの、十七年六月ミッドウェー海戦を転機に米軍の反攻が

始まり、ガダルカナル、アッツ、サイパン、グアム、硫黄島、沖縄が次々と陥落、戦火は本土に迫

った。南の島を基地とした米軍のB29による本土爆撃は、東京空襲となり、帝都焦土化は目を覆

う状況となった。

ときに、昭和二十年二月十九日東京を空襲するためB29百五十二機がサイパンから飛び立った。

これを迎え撃つため日本軍は、千葉県松戸市から飛行第五十三戦隊が飛び立つ。学徒兵広瀬少

尉(二一才)と加藤伍長(二一才)を乗せた「屠竜」六五号機は、丹沢上空一万米で待機、富士山西

方より、高度八、三〇〇米で進入する第一編隊十二機の一機を撃破、次いで第二編隊八機が大月

西方より迫ってくるのに気付く。第一攻撃で殆んど全弾を撃ち尽くした上に右エンジンは被弾し白煙

を吹いていたゝめ、広瀬少尉は意を決し、「加藤降りろ」「体当り」と叫び、B29に前方より体当りを

敢行、加藤伍長は「広瀬機体当り」と機上から無線機のキーを押し続けていたとき、空中に放り出さ

れ、意識を失う。屠竜は火ダルマになって西原村阿寺沢に墜落、広瀬少尉は壮烈な戦死を遂ぐ。

B29は火を吹き対洛中に爆発空中分解し阿寺沢から中群山周辺に落ち、翌二十日一ぱい燃え続

けた由。

三月に入り爆撃は激増、九日夜三四三機のB29が東京を爆撃、また名古屋・大阪・神戸と襲撃を繰

返す。

一方四月一日には米軍が沖縄本島に上陸、六月二十三日日本の守備隊は全滅。戦死者十三万人、

一般住民十五万人が犠牲になり、遂に八月六日広島に、九日長崎に原爆が投下された。八月十五日

天皇陛下の戦争終結の詔書が玉音放送され、こゝに太平洋戦争は終結した。終戦後降矢鋭光・橋本

平太郎両翁が世話人となり、村内有志多数の賛同を得、体当り墜落地に陸軍大尉広瀬治戦死地の

碑を建立された。この度、西原遺族会、西原地区有志が協力し、再び戦争の悲劇を繰返さないことを

願って由緒碑を建立した次第である。

平成十年十一月吉日    西原遺族会 西原地区有志

 

由緒碑 碑文(裏)

広瀬大尉に関する事柄

本籍地       茨城県真壁郡大和村大字大国玉一、八六三

氏名         廣瀬 治                     

生年月日      大正十一年二月十九日                         

 父隆重郎 母ヨシ  三男     

戦死年月日 昭和二十年二月十九日                          

                  .          大月市上空においてB29に体当り、西原村阿寺沢に墜落戦死

陸軍大尉

武功抜群として感状授与・二階級特進

 

西原招魂社

山梨県北都留郡上野原町

写真および感状の提供 K-N様

西原招魂社

 

    

廣瀬 治陸軍大尉の遺影                  廣瀬 治陸軍大尉の乗機「屠竜」の破片  

 

廣瀬 治陸軍大尉が撃墜したB29の破片

 

感状

陸軍少尉 廣瀬治

右者昭和二十年二月十九日マリアナ基地よりする米空軍約百機の帝都来襲に際し富士山付近上空

に於てB29十二機編隊を捕捉し其の右外側編隊二番機に後上方攻撃を指向して之を撃破す次で大月

西方上空に於て敵八機編隊の左外側編隊三番機に対し敢然体当りを実施して之を撃墜し自ら亦壮烈

なる戦死を遂ぐ

廣瀬少尉は温厚篤実沈着果断責任観念旺盛にして夙に皇土防衛の光栄に感激し日夜戦技の錬磨に

精進しありしか遂に身を以て帝都防空の大任を完遂せるものなり斯の如きは真に帝国軍人の●鑑と

謂うべく其の武功亦抜群と認む

仍て茲に感状を授与し之を全軍に布告す

防衛総司令官 稔彦王

 

本土防空

更新日:2007/04/27