平馬康雄

陸軍曹長

 

平馬康雄陸軍曹長

 

平馬康雄陸軍曹長

昭和14年、陸軍少年飛行兵(第9期生)として東京陸軍航空学校に入校。熊谷陸軍飛行学校を経て同18年、チモール

島(現インドネシア)方面に転戦中胸部を受傷、内地に後送された。

その後、次第に米軍の本土空襲が激化したため、当時第10飛行師団隷下飛行第18戦隊所属の平馬康雄曹長は、

傷いまだ癒えぬ身をもって帝都防空の任に当たった。

 

平馬曹長の乗機

 

昭和20年 4月 7日

昭和20年4月7日、越谷周辺で空襲警報が鳴り響き、暫くしてB29爆撃機約90機とP54護衛戦闘機約30機の編隊が

上空に現れ、平馬曹長は五式戦を駆ってこれを迎撃、単機よく敵編隊の真っ只中に突入し再三に亘り攻撃を敢行した。

しかし遂に衆寡敵せず、埼玉県南埼玉郡新方村(越谷市)上空において集中砲火を浴び、愛機とともに水田に激突泥中

深く埋没した。

黒煙を上げて墜ちていく所が松伏方面からも目撃された。

 

  

      平馬機の奮戦/海宝秀一画                         平馬機の墜落現場/埼玉県新方村(越谷市)

 

戦後の発掘

当時、地元住民が総出で遺体の発掘作業をしたが、農耕馬でも身動きできなくなると云う底無しの湿田で湧き水に妨害され

やむなく中断された。その後、地元では「B29に体当りして散った勇士」として塔婆を建てて供養が続けられ、命日には必ず

線香と花が添えられた。

その遺体と機体も、人々から忘れ去られようとしていた が、英霊を思う肉親の切なる願いと、かつての戦友が組織する地元

少飛会員の熱意が結実し、水田に埋もれていた五式戦闘機が、関係市当局と陸上自衛隊の全面的支援を得て発掘される

こととなり、戦後27年が経過した昭和47年2月14日、平馬曹長のご母堂も福井県から来られ、多くの関係者が見守るなか

地中から遺体と遺品が収容された。

発掘地点で慰霊祭が執り行なわれ、関係者にとって長かった戦後がようやく終わりを告げた。

 

 

靖國神社

東京都千代田区

  

平馬康雄陸軍曹長搭乗機(五式戦)の手袋                 平馬康雄陸軍曹長搭乗機(五式戦)の残骸

 

  

平馬康雄陸軍曹長搭乗機(五式戦)の被服                 平馬康雄陸軍曹長搭乗機(五式戦)の残骸

 

  

平馬康雄陸軍曹長搭乗機(五式戦)の残骸

 

聖博物館

長野県筑摩郡麻績村

  

平馬康雄陸軍曹長搭乗機(五式戦)の残骸

 

本土防空

更新日:2009/02/15