豊中空襲

 

大阪府豊中市への空襲は昭和20年 6月 7日から終戦までに6回行われ、死者575人、重軽傷者約900人、

罹災家屋約3,000戸を数えた。その被害は大阪府下では、大阪市、堺市に次ぐ3番目の戦災都市となった。

 

昭和20年 6月 7日

昭和20年 6月 7日 午前11時30分頃、400機を超えるB29が豊中上空に飛来。爆撃は1時間半にわたり

市内の各地区は爆弾・焼夷弾や機銃掃射の激しい攻撃を受けた。この日だけで541人が亡くなられた。

 

三国金属

大阪府豊中市

三国航空機材戦災死者慰霊碑

 

三国航空機材は戦闘機「紫電改」の部品を製造しており、空襲時には勤労動員の学徒がたくさん働いていた。

空襲を受けた工場は全壊し、約40人の従業員、旧豊中中学校の教師1名と生徒8名、金蘭会高等女学校の

生徒6名が亡くなった。

 

豊中墓地

大阪府豊中市

    

憶念/旧豊中中学校二十回生建立

碑文

明記不忘、我が師、我が友

時に昭和二十年九月七日午前十一時三十分頃、三国航空機株式会社に学徒動員中、米軍機の爆撃を受け、

あたら散華、共に死すべき条件のもと、今日を生きていのちの不思議をあらためて思う。君の無言の顔は亦、

私の顔でもある。

昭和四十九年六月二日  旧豊中中学校二十四回生建立

 

豊島公園

大阪府豊中市

  

てしまの塔

 

都市空襲

更新日:2008/03/02