第三海軍燃料廠空襲

 

昭和20年 5月10日

午前10時過ぎ、豊後水道上空から約800機に及ぶB29の編隊が侵入し、第三海軍燃料廠・

大浦油槽所・徳山鉄板工場などを一時間にわたり爆撃した。このため燃料廠の全機能は破壊

され、死者500数十人、重軽傷者1,000人に及んだといわれる。

 

昭和20年 7月26日

昭和20年 7月26日午後11時過ぎ、三機編隊のB29 約100機が侵入して波状攻撃を加え、

多数の焼夷弾と小型爆弾を投下した。市街はたちまち火の海と化し、逃げ惑う市民には機銃

掃射が加えられた。

一夜にして市街地の約90%が焼け野原と化し、罹災面積100万坪、死者482人に及んだ。

また、市役所に急行して陣頭指揮を執った羽仁市長は壮絶な空爆死を遂げた。

 

本正寺

山口県周南市

徳山大仏

由来

昭和20年 7月26日の市街地攻撃では、「ここなら安全だろう」と防空壕が作られた徳山大仏の周囲にも

焼夷弾が落ち、大仏そばの防空壕では直撃弾で17人が死亡した。

終戦の9年後、徳山大仏は空襲時の遺体を荼毘に付した本正寺に移され、今も徳山を守護する大仏として

参拝者も多い。

 

代々木公園

山口県周南市

太平洋戦争被災復興碑

 

  

太平洋戦争被災復興碑

碑文

太平洋戦争被災 復興ここに成る

 

徳山高校

山口県周南市

久遠の碑

碑文

第二次世界大戦末期 昭和二十年五月十日の大空襲の際 勤労動員学徒として折から第三

海軍燃料廠において作業中のわれらが友 徳山中学校四年生

岡田公男  金窪浩一  三浦 博  宮崎 求

の四君は 米軍爆撃機B29の投下した二百五十キロ爆弾の直撃にあい あえなくもその尊い

生命を失った

われらとしてはこれらなき友の忘れられようとしていることに耐えられず 四君のみ霊永遠に安

かれと祈念しつつ ここに久遠の碑を建立する

昭和四十八年五月十日  山口県立徳山中学校 第四十六期・第四十七期 同期生一同

 

児玉公園

山口県周南市

  

徳山市連合遺族会、徳山市戦災遺族会 慰霊碑

碑文

御霊 安らかに眠りたまえ

 

出光興産 徳山給油所

第三海軍燃料廠 跡地

 

都市空襲

更新日:2009/12/12