震天制空隊

 

近衛戦闘機隊

昭和19年 7月、マリアナ諸島の失陥により、B−29による日本本土への飛来は避け難いも

のとなった。陸海軍の航空部隊は配置転換が実施し、防空戦力の強化を急いだ。

帝都防衛の主力は陸軍第十飛行師団で、調布・成増・松戸・柏の各基地に戦隊を展開した。

調布飛行場に展開した同飛行師団の飛行第二四四戦隊は、皇居上空の防衛任務も負って

いたため、「近衛戦闘機隊」「つばくろ部隊」などと呼ばれていた。

     

震天制空隊の三式戦「飛燕」                   出撃前の打合せ

 

11月24日の白昼、マリアナ・イスレイ基地を発進したB−29 94機がついに帝都へ襲来、陸

軍第十飛行師団の全機は高度一万メートルで待機したが、B−29の巨体でさえ激しく揺さぶ

られる時速220キロメートルのジェット気流のなかでは、飛んでいるのがやっとの状態で戦果

は得られなかった。

 

12月 3日、B−29 86機が駿河湾から浸入、四宮 徹中尉(陸士56期)以下8機は東京上

空で待機、四宮機はB−29に突進、激突し、敵機は右エンジンから白煙を噴出し離脱を図っ

たが、小松大機の機銃掃射を受けて東京湾に墜落した。

四宮機も左翼の先端を切断され、錐揉み状態で落下したが体制を回復し、調布飛行場に帰

還を果した。

この日の戦果は、撃墜 6機、撃破 2機にのぼり、新聞には体当り機の生還が華々しく報道

され、12月 5日に「震天隊(震天制空隊)」と命名された。

邀撃後の四宮中尉と愛機

 

空と海で特攻二回

先立つ12月 1日、四宮中尉に対艦特攻隊隊長の内示がくだされ、「震天隊」が命名された

12月 5日には慌しく送別会が行われ、神奈川県・相模飛行場へ向った。

この日のうちに編成を終えた対艦特攻隊は、第二振武隊として茨城県・常陸飛行場で本格

的な対艦特攻訓練を開始し、来るべき比島決戦に備えた。しかし比島の戦況は悪化の一途

をたどり、このため第二振武隊は第六航空軍の隷下に編入され、目標を沖縄決戦に変更し

て隊名も第十九振武隊に改称された。

昭和20年 3月26日、米軍は沖縄慶良間列島に上陸を開始。天一号作戦が発動され本土

の陸海軍航空部隊は南九州への進出を開始した。第十九振武隊は山口県防府で待機の後

鹿児島県南端に近い知覧基地へ進出した。

4月29日、四宮中尉以下の一式戦「隼」は知覧基地を発進。六百数十キロを翔破して敵艦

隊の群れに突入、ふたたび還らなかった。

  

調布飛行場から南九州へ向う第19振武隊            知覧基地で出撃直前の第19振武隊/前列中:四宮中尉

 

調布飛行場

東京都調布市

現在の調布飛行場

 

  

隊門

 

多磨霊園

東京都府中市

八紘一宇をイメージして建てられた塔

多磨霊園の木立は調布飛行場の航空機隠匿場所として利用された

 

本土防空

更新日:2002/06/09