佐倉操車場空襲

 

昭和20年7月18日、房総半島・九十九里沖の空母から発進したグラマンF6Fヘルキャット2〜4機が

国鉄佐倉駅に飛来した。

当時の国鉄佐倉駅には千葉県下最大の操車場が有り、県下の輸送貨物の多くはここで編成されてい

たので、軍需物資輸送の拠点として狙われたものと思われる。

空襲警報発令とともに一台の機関車が線路脇の小山のかげに避難、機関車の乗務員と検車区員の

14名は小山の山裾に掘られた半地下式の防空壕等に避難、別の1名は大杉の陰に隠れた。

米軍機は機関区の建物等は攻撃せず機関車に攻撃を集中した。佐倉駅には無蓋貨車に積んだ高射

機関銃二台が配置されており、陸軍兵士4名が対空射撃を行ったが、2機のグラマンの機銃掃射とロ

ケット弾で機関銃座は破壊された。

グラマンは更に小山のかげの機関車に向けて機銃掃射とロケット弾を発射、このロケット弾が防空壕を

直撃し14名のうち13名が爆死した。大杉の陰に隠れた1名も銃撃を受け亡くなった。

 

JR佐倉駅

千葉県佐倉市

殉難之碑  …防空壕の跡

碑文

米軍機の来襲日増しに激しく、第二次世界大戦の終幕も近づいた昭和二十年夏、この付近に浅間神社

の社があった。

社の前に錦糸町検車区佐倉派出所(後に佐倉客貨区となる)の検修職場があり、社の崖下には防空壕

が構築されていた。

七月十八日十一時過ぎ、九十九里沖の空母から発信した艦載機数機が来襲、折から職場で検修作業

中の検車区員と、付近で入換機関車に乗務中の機関区員が、いち早く防空壕に退避したが、不運にも

米機が投下した爆弾が壕を直撃、一瞬にして十四名の尊い生命が奪われた。

昭和四十六年来有志職員相集い、春秋の供養を捧げてきたが、本年七月三十三回忌の法要を営むに

あたり、慰霊碑建立の機運盛り上がり、広く千葉鉄道管局管内に呼びかけ、その浄財によって殉難の地

にこれを建つ。

十四柱の御霊よ、安らかに眠りたまえ。

昭和五十二年十二月  殉難碑建立趣意賛同者一同

 

浅見 貞夫  佐倉検車派出所  技工手伝    十七才

畔蒜辰三郎    〃      技工      十六才

梅澤 隆三  佐倉機関区    機関助士見習  十六才

江口 健三  佐倉検車派出所  技工     三十二才

円城寺洋益    〃      検車掛     十七才

大川 廣吉    〃      検車掛    五十五才

大木 秀夫    〃      技工手伝    十六才

久力 正雄  佐倉機関区    機関士    三十四才

栗原 榮治  佐倉検車派出所  助役     三十三才

向後清三郎    〃      検車掛    五十四才

齋藤 敬信    〃      技工手伝   三十一才

庄田 清禱  佐倉機関区    機関助士    十八才

真野 貞治  佐倉検車派出所  検車掛    三十三才

山田 秋正  佐倉機関区    機関助士   二十二才

 

操車場跡

 

操車場跡から佐倉駅

 

都市空襲

更新日:2011/10/02