太田空襲

 

太田市には中島飛行機の太田・小泉製作所(邑楽郡大泉町に関連する飛行場や軍需工場があり、

昭和20年2月10日・2月16日・2月25日・4月4日・7月28日・8月14日と数度にわたり本格的

な空襲を受けた。

 

太田中央公園

群馬県太田市

太田市戦災被爆者慰霊記念の碑

碑文

安らかに この国の永遠の平和を祈念して

が太田市 は 太平洋戦争の末期 昭和二十年二月十日 二月十六日 二月二十五日 四月四日

七月二十八日 八月十四日と数度にわたってはげしい空襲に見舞われ その度毎に数多くの死傷者

が続出したが 現在の太田市 在住の遺家族数は 五十五家族 その被爆犠牲者は壱百弐名に及ん

でいる。

ところで 戦後における国の援護の実状は 民間の被爆犠牲者には その処遇も行われないまま

すでに三十有余年の年月を経てきたのである そのため本市鳥山に存在する大越福は 昭和四十五

年十二月 太田市 戦災被爆者遺家族の会を結成し その会長となって私財を投じて国会等に対し

強力な陳情活動を続けたのである

時あたかも今年昭和五十二年は 被爆犠牲者の三十三回忌にあたり 市当局並びに市民各層の

協力のもと太田市 戦災被爆者慰霊祈念の碑の建設となったのである

このことは この国の永遠の平和をこいねがう被爆遺家族のせめてものねがいでもあり こゝに記し

てその由来とする所以である

昭和五十二年八月十日  太田市 戦災被爆者遺族の会 慰霊記念の碑建設委員会

会長 大越 福 外役員一同

 

太田市戦災被爆者慰霊記念の碑

 

都市空襲

更新日:2011/05/29