西陣空襲

 

京都市内の主な空襲

昭和20年 1月16日 東山区馬町(東山空襲)京都市内 初空襲  .

3月19日 右京区春日                     .

4月16日 右京区太秦                     .

5月11日 上京区京都御所                  .

6月26日 上京区出水(西陣空襲) 京都市内最大の空襲

 

東山空襲

昭和20年 1月16日 午後11時23分頃、京都市東山区馬町東入付近に、米軍機が爆弾投下。

死者 41人、負傷者 56人、被害家屋 141戸。

 

西陣空襲

昭和20年 6月26日 午前9時30分頃、米爆撃機B29の編隊(6〜10機)が近畿地方に侵入、

編隊は京都市上京区を北西から南東に進行、その内の1機が西陣地域に7発の爆弾を投下した。

死者 50名、負傷者 66名、被害家屋 292戸、被災者 850名。

 

山中油店

京都府京都市上京区

爆弾の破片

説明版

昭和20年6月26日午前9時半頃、B29の編隊(6〜10機)が近畿地方に侵入し空襲警報が発令

された。編隊は京都市上京区を北西から南東に進行中でそのうちの1機が上京区出水地域に50

キロ爆弾あるいは250キロ爆弾7個を投下した。この地域の被害が京都市ではもっとも大きく、北

は上長者通り、南は下立売通り、東は大宮通り、西は浄福通りの約400メートル四方の範囲で、

死者50名を出した。負傷者は正親、出水、特賢の各小学校の救護所に運ばれ、手当を受けた。

その数は66名といわれているが、救護にあたった医師は負傷者は300名以上であったと言って

いる。6月30日には正親小学校で死者の合同争葬儀が行われた。

被害家屋は全壊71戸、半壊84戸、一部損壊137戸の計292戸で、被災者は850名に達した。

これは、その時の空襲の際、山中油店の家に落ちて来た爆弾の破片です。

 

辰巳公園

京都府京都市上京区

空爆被災を記録する碑

碑文

昭和二十年(一九四五年)六月二十六日昼前、低い雲の上空に、敵機B29の爆音が近づき、突然

に轟然たる爆発音とともにすさまじい土煙が上がった。この時の被爆は上長者町通より南は下立

売通、東は大宮通、西は浄福寺通に至る方四百メートルの地域で、当時の報告には五十キロ爆弾

七発とも五発とも言われた。

報道管制のため、その状況は、多くの市民の知るところとならなかったが、西陣警察署の記録によると、

一、死傷者 即死 四十三人、 重傷 十三人、軽傷 五十三人、 計 百九人。         

二、被害家屋 全壊 七十一戸、半壊 八十四戸、一部損壊 百三十七戸、計二百九十二戸。

三、罹災者 八百五十人。                                       

であった。

ちなみにこの辰巳公園も被災地跡にできたものである。

第二次大戦(大東亜戦争)において京都市は非戦災都市と言われてきたが、東山区馬町と太秦の

三菱工場および当地域が爆撃をうけたものであり、当地域が最も大きな犠牲者を出したのである。

ここに戦後六十年を期して、この悲惨な空爆の事実を伝えるためこの碑を建立して後世への記録

と留める。

平成十七年八月  空爆被災を記録する碑の建立委員会

 

都市空襲

更新日:2010/04/16