広島原爆 似島(にのしま)

広島県広島市南区 似島

 

似島 安芸小富士

 

原爆と似島

昭和20年8月6日、広島市は人類最初の原子爆弾によって一瞬のうちに壊滅し、多くの死傷者を出した。

原爆投下直後、市役所や県庁機能を失い交通や通信も麻痺する中で、いち早く救援活動を始めたのは宇品

陸軍船舶司令部所属・暁部隊だった。暁部隊は川を船で溯って消火・救難にあたり、負傷者宇品搬送した。

 

一方、似島の陸軍検疫所臨時野戦病院となり、ここ似島にも約1万人の負傷した原爆被爆者が収容されたが、

応急看護の甲斐もなく死亡者が続出した。

似島でどのくらいの人がくなったのか、しくは分かっていない。

また宇品や金輪島、己斐などから死体が運ばれ、似島埋葬されたとの証言もある。

 

    

         当時、犠牲者を葬った千人塚                    戦後、発掘され広島に送られる遺骨

 

 

平和養老館

  

  祈平和地蔵尊                                 原爆犠牲者慰霊 平和観音

 

暁第6165部隊(病院船衛生53班) 原爆犠牲者診療の地(似島臨時野戦病院)

碑文

昇天の霊よ 永久に安らかなれ

 旧暁第6165部隊は昭和16年7月広島にて編成以来病院船に乗組み 主に南方方面の傷病兵を輸送診療に

従事していたが 最後にこの地に於て野戦病院を開設し1万人に及ぶ原爆被爆者を診療して復員する

旧暁第6165部隊(病院船衛生53班) 西村幸之助外生存者 昭和53年5月建立

 

臨海少年自然の家

陸軍第二検疫所跡

概略

明治37年、日露戦争が始まると陸軍はこの地に第二検疫所を建設。

明治38年、ロシア軍俘虜の検疫が始まったと時期に、似島における検疫は第二検疫所が主体となった。

 

  

陸軍運輸部馬匹検疫所 焼却炉(移設)

病死した軍馬の焼却炉だが、原爆投下後は亡くなった被爆者の方の火葬にも使われた。

 

  

陸軍第二検疫所 桟橋

 

似島小学校、中学校

陸軍運輸部馬匹検疫所跡

概略

昭和15年、陸軍運輸部馬匹検疫所(軍用馬の検疫所)が作られた。

この検疫所の目的は、外地から帰還した軍馬の検疫で、病死した軍馬の焼却炉が自然の家に移設されている。

原爆投下後は、亡くなった被爆者の方の火葬にも使われた。

 

  

原爆犠牲者 慰霊碑

概略

昭和46年10月、似島中学校のグランドから被爆当時のものと思われる遺骨4体が発見され、本格的な発掘を

行ったところ500体以上の遺骨が発見され、同年12月に遺骨は平和記念公園の原爆供養塔に納骨された。

その後、昭和47年12月、犠牲者の冥福を祈って慰霊碑が建てられた。

平成16年5月26日から地元の要請に基き、広島市が未調査だった地域を対象に3度目の発掘調査を実施。

新たに推定85体の遺骨と様々な遺品が出土している。

碑文

昭和20年8月6日 広島市は人類最初の原子爆弾によって、一瞬のうちに20数万人の死傷者を出した

負傷者は各所に避難し ここ似島にも1万人余におよぶ人々が収容され 応急看護の甲斐もなく死亡者が続出し

混乱のなかとはいえ一部は仮埋葬のままでこの地に眠り悲しくも20有余6年の歳月が過ぎた

昭和46年 はからずもこの地から遺骨が発見され推定517柱を発掘し原爆供養塔の合祀した

ここに一周年を迎え、諸霊の冥福を祈り平和への誓いを新たにしてこの碑を建立する

 昭和47年11月 広島市長 山田節雄

 

似島学園

陸軍第一検疫所跡

概略

明治28年に陸軍第一検疫所として建設され、明治38年に捕虜収容所が併設さた。

明治38年、ロシア軍俘虜の検疫が始まったと時期に、似島における検疫は第二検疫所が主体となった。

 

  

弾薬庫

 

  

第一次世界大戦時の捕虜収容所遺構                             煉瓦造りの水路       

 

陸軍第一検疫所 桟橋

 

  

陸軍第一検疫所 桟橋

 

  

弾薬庫通用門

 

都市空襲

更新日:2007/11/12