各務原空襲

 

大正 6年、第一次世界大戦が勃発、日本で最初の航空隊(陸軍航空大隊)が埼玉県所沢

で編制されたが、手狭であったため広大な平坦地であった各務原が飛行場建設の適地とし

て選ばれた。大正 7年には航空第二大隊が新設され、さらに大正 9年には所沢から航空

第一大隊が移駐して来る及んで、各務原は陸軍航空部隊の一大拠点となり、近隣には航空

隊の補給部隊も設置された。 

一方、神戸の川崎造船所(現在の川崎重工)は、陸軍の飛行場に隣接している立地に着目し

飛行機部(のちに川崎航空機として独立)各務原分工場を完成させ、これにより各務原は航

空機生産の町としてもスタートした。

 

昭和20年 6月22日

この日の空襲は破壊力の大きい最大級の爆弾を主目標に向かって投下したものであった。

 

昭和20年 6月26日

9時10分から10時49分までの70機のB29により500ポンドの高性能爆弾が投下され、川崎航

空機岐阜工場では新鋭戦闘機「飛燕」の最終組立工場・実験工場・工作事務室・小組立工場・労務

者の宿舎、学校の建物、圧延工場などに命中弾を受け、その機能はほとんど失われた。

 

昭和20年 8月 2日

工場が破壊され疎開した川崎工場の第2全組組立工場は、正午になったので機外へ出て弁当を食

べかけたところを米戦闘機による機銃掃射を受け、組立中の飛行機に小型爆弾が命中、バラバラに

飛び散って大きな穴が空いた。

 

航空自衛隊 岐阜基地

岐阜県各務原市

  

銃撃の弾痕

 

市民会館

岐阜県各務原市

空襲慰霊碑 平和之塔

 

八幡神社跡

岐阜県各務原市

    

焼夷弾を載せた空襲慰霊碑

 

都市空襲

更新日:2008/03/02