大山口駅列車銃爆撃

 

JR大山口駅

鳥取県西伯郡大山町

    

大山口列車空爆 慰霊の碑

由来記

昭和二十年(一九四五)七月二八日午前八時頃、大山口駅東方六〇〇mの上野地区切り割りに避難した、

鳥取始発出雲今市行き第八〇九列車に、米軍艦載機三機が銃爆撃を加えた。

死亡四十四名、負傷三十一名以上の犠牲者を出し、上野では全半焼三戸の火災も発生した。

列車は十一両編成、前三両は病客車で、呉海軍病院三朝分院を転隊員する軍、工廠関係者と付添いの衛生

兵、日赤救護看護婦が乗り、他の一般客車はチ号演習に動員された国民義勇隊、勤労動員学徒、軍需工場

徴用者、一般乗客等で超満員であった。米軍機の機銃弾とロケット弾による攻撃は、前四両に集中、死傷者

の折り重なる惨状を呈した。

敗戦直前、乗客は本土決戦体制下にあったが非戦闘員であり、更に病客車には大きく赤十字マークが書かれ

ていたにもかかわらず、米軍機は執拗に攻撃を繰り返し、静かな田園は一瞬にして惨劇の場と化した。その日

を境として、遺族被災者の苦難の日々が永く続くこととなった。

平成三年四十七周忌の合同慰霊祭を機に、大山口列車空襲被災者の会がつくられ、その呼びかけに応えた

県内外の遺族被災者等一千有余の人々の協賛、関係町等の支援によってこの碑は建てられた。

 

愛する肉親を失った遺族の悲しみは消えず 死者は無念の思いを語ることができない

再びかかる悲惨を繰り返してはならない 誓いと鎮魂の祈りをこめてこの碑を建立する

平成四年七月二十八日  大山口列車空襲被災者の会

 

 

 

都市空襲

更新日:2008/03/02