海軍大尉 小灘利春

 

回天十型の物語

平成 7年 8月

 

電池魚雷改造の試作回天

人間魚雷と呼ばれる回天は昭和19年9月5日、山口県大津島で訓練を開始し、11月8日に第一陣菊水隊の

回天12基が大型潜水艦3隻に搭載されて出撃、続いて12月末に回天24基、潜水艦6隻からなる金剛隊が、

それぞれ南太平洋各地の敵艦隊攻撃に向かった。

実戦に使用された回天は一型だけであるが、その急速製造発令と共に、93式酸素魚雷の改造とは全く別個の、

本格的な人間魚雷として2型、4型が計画され、その開発の方に技術者たちは努力を傾注した。

多くの時間と資材が投入されて、それぞれ試作に成功したものの、量産に移行することなく中止となり、

実戦場に姿を現すことなく終わった。

 

昭和20年に入った1月か2月、大津島基地の魚雷調整場にある桟橋の傍らで、先任将校近江誠大尉から

「92式魚雷を使った新しい人間魚雷が出来る。ふたりで一緒に取り組もうではないか」と私に話しかけられた。

なるほど、この潜水艦用の電池魚雷は沢山余っている筈である。電動機推進だから発進も停止も自由であるし、

或いは後進も回路をつければ可能であろう。

回天一型の、一度走りだしたら止められない、操縦上不利な点は電池魚雷ならばカバーされる。

しかし、スピードの方は、世界最高性能の93式酸素魚雷を使った一型のようには望めないであろう。

これだけは咄嗟に頭に浮かんだが、心の底では「これは弱ったなあ」と当惑した。

倉庫に大量に眠っている電池魚雷に生命を与えることの意義は判る。

創造の魅力も捨てがたい。

第一、尊敬する近江先任将校の意向を無下に断ることなど出来はしない。

しかし自分としては、水中30ノットの高速で突っ走る、信頼のおける一型の回天で、何としても早く出撃したい気持ちである。

「心は動くが先約があるので」と言った心境であった。

 

ところが、暫くして近江大尉から

「電池魚雷の回天は水圧テストをしたら、操縦室が潰れてしまった。この計画は中止だ。」との話があった。

「ヤレヤレ、実験失敗とは、助かった!」と安心してしまい、私もそのうちに第二回天隊長として八丈島に出撃することが

決まったので、目の前の大事に心を奪われて電池式の人間魚雷のことは忘れてしまった。

 

戦後、近江(現姓山地)氏に伺った話では、当時呉海軍工廠水雷部に赴いて、水槽に浮かぶ3基以上の92式魚雷を

改造した試作人間魚雷を、二階の実験室から目撃された由であった。

 

は、お話をもとに私が描いたものであるが、魚雷の背中に長い透明プラステックの操縦席が取り付けられ、

搭乗員は腹這いになって操縦する方式である。

深度20メートルの耐圧性がキーポイントであったのだが、テストしたところ、操縦室に水が漏ったので、

実用困難と判定されたとのこと。

 

この方式の人間魚雷は、原始的かも知れないが、実用性は優れていたのではないかと思われる。

特徴を挙げると、

@在庫多数         92式魚雷は倉庫内に約上1,000本眠っていた

A量産が可能         構造が簡単

B整備が容易         訓練回数も従って増える

C潜望鏡が無い    昼間なら発見されやすいが、夜間なら差がない

               観測が容易で、肉眼で直接見ながら体当たり可能

               乗員の練成が短時日で出来る

D重量変化が無い    航走中に気蓄器内の高圧酸素を大量に消費し、浮力がどんどん大きくなってゆく回天一型と異なり、

               電池は使っても重量の変化がない。

               従って注水して浮力と、前後釣り合いの調整をする厄介な操作の必要が無い。

E機械の発動、停止が自由

F無航跡

G発進後でも、基地に戻り、充電して再発進することも可能

H小型、軽量       陸上での移動が容易なので用兵上の利点が多い

               92式魚雷の全長は7150M 重量172トンである

 

艦上爆撃機の座席の風防のような構造と聞いたが、水中を走る魚雷には耐圧性、水密性の見地からすれば

飛行機のスタイルは無理がある。

一人の搭乗員の略固定された目の位置から周囲が見えさえすれば良いのであるから、頭の周囲だけを厚い

風防ガラスにして、座席の後部は鋼板にすれば良かったのではないかと思う。

 

潜水艦と一緒に深く潜る必要がなければ、水さえ漏らなければよいのである。

あと僅かな対策でこの型の人間魚雷が陽の目を見たであろうに、中止とは全く残念なことである。

搭乗員は身動きが儘ならず、窮屈な思いをするであろうが、人間機雷と言われた伏龍部隊よりはずっと楽であり、

且つ効果的ではなかったかと思う。

 

回天十型の配備計画

大本営海軍部参謀一部と海軍省軍務局との連名で昭和20年7月16日、各鎮守府長官、特攻戦隊司令官宛に

発信された機密電報(機密第161836番電)によって、92式電池魚雷を改造した回天十型について次のような

展開、配備の腹案が示された。

配備方面 基数 基地概成時期(昭和20年)
8月 9月 10月
A 九十九里浜、鹿島灘(含・小名浜、勝浦) 24 中旬24    

B 浦賀水道(含・館山湾、房総半島東岸、三浦半島東岸)

60   中旬36 上旬24
C 相模湾(含・伊豆半島東岸、三浦半島西岸) 36   中旬36  
D 伊勢湾付近 48   中旬24 上旬24
E 紀伊水道 60   中旬48 上旬12
F 四国南部 48 中旬24 中旬24  
G 豊後水道(含{宿毛湾、佐伯湾) 60 中旬24  中旬24 上旬12
H 有明湾付近 36 中旬36    
I  鹿児島湾付近 36 中旬24 中旬12  
J 九州南西部(含・片浦、天草) 60 中旬36 上旬24  
K 九州北西部 36     上旬36

合      計

504 168 228 108

 

即ち、8−10月の3カ月の間に一挙504基もの回天十型を生産し、展開しようとする計画であって、

大本営と軍務局がこの腹案に対する配備位置の概要を至急回答するよう各鎮守府などに求めていた。

 

この機密電報には次の摘要が加えられている。

◎回天10型の主要要目

炸薬量     300 キロ

馳走能力     8 ノット   30,000メ一トル

最高速力    14 ノット

重量      2.3 トン

全長         9 メ一トル

高さ      0.7 メ一トル

耐圧深度   2.0 メ一トル

 

(注@・調定深度は5メートルに固定してセット)

(注A・回天一型、四型との要目比較は別表の通り)

(注iii・上記の高さは胴体中央部のもの。92式電池魚雷の直径は0.533メートル)

 

◎使用方針

停泊艦攻撃に主用する。(航行艦攻撃は特別の場合のほか困難)

 

◎基地施設

震洋基地施設に準じ格納庫および斜路を構築する。

(既設震洋格納庫であって使用していないものを成るべく流用するようにする) 

但し、海岸よりやや内陸に引き込んで隠蔽しておき、陸上機動により使用することに開し研究中。

 

◎回天十型の生産状況

上記の電報にある回天十型の展開、配備は急迫した戦局にあって当然の措置であろうが、

現実の生産はどうであったか。

各方面で調べたところでは次のような状態であった。

 

当時、製作現場を担当された横須賀海軍工廠水雷部の佐伯正剛技術大尉の説明によれば、回天十型を横須賀で

生産することになって、図面を受け取るために同氏が呉工廠に赴き、6月22日の大空襲の直後に水雷部長より直接

手渡され、持ち帰って製作の手配に取りかかった。

横須賀軍港の、新井掘割を隔てた吾妻島(箱崎島)に掘られたトンネルの中を組立工場とし、レールを敷き、

クレーンを立て終って、部品の到着が始まり、いよいよ組み立て開始という段階で終戦を迎えてしまったとのことである。

十型1−2基の組立が終わっていたとの話もあるが、その可能性は薄いようである。

箱崎島では回天四型用として大型トンネル5本が、第3016設営隊第4中隊長木下秋登技術大尉の指揮のもと、

堅い岩山を突貫工事で20年5月29日から6月25日までの僅か27日間という驚くべき短期間で完成していた。

おそらくは、その一部が回天10型の組立工場として活用されたものと想像される。

 

木下大尉の追想によれば、設営が終わって島を去る日が近づいたある日、

「海中からトンネルの中まで敷き込まれた50キロ・レールの上を、真っ黒に塗られた小型潜水艦『回天』が引き揚げられた。

私はやっと入れるハッチの中に身を沈めて、たった一人だけの狭い操縦席に座ってみた。

艇内には簡単な計器と操縦ハンドルの外には何もない。

艇体の前頭部が火薬庫だと聞かされたが、同じ学徒出陣の仲間たちがこれで敵艦に激突するのかと思うと、

身の引き締まる思いがして、敵の本土上陸を覚悟したのもこの頃だった」

とのことである。

この時の回天≠ェ或いは十型か、と期待されたのであるが木下秋登氏から色々お聞きした、大きさや時期その他の

状況からは、横須賀工廠で四基ほど完成していた回天四型のうちの1基であったと判断される。

 

◎回天十型はどんなものか

上記佐伯氏の説明によれば、十型は92式魚雷の電池室の中央で前後に切り離し、その間に操縦室を溶接で

取り付けたもので、搭乗員は操縦室に座って潜望鏡で観測しながら操縦する構造である。

 

御説明に基づいて図を描いてみると、良く似た物があることに気付いた。

京都市右京区嵯峨の名利、天竜寺の横にある「嵯峨野」と言う湯豆腐屋の庭先に、操縦室と駆水頭部が付いた、

人間魚雷らしきものが現在安置されている。

だが、その素性、来歴についての説明は的確ではなかった。

我々がその価値を当初は疑いながらも調べたところでは、1965年頃に、ハワイのホノルル国際空港入口にある

中古自動車屋のマラー氏の店先に飾ってあったものである。

潜望鏡とハッチ蓋は同氏が自分で作って取り付けた物だという。

そのとおり、鍋蓋のような薄い鉄板1枚では水圧に耐えられないし、潜望鏡も到底役に立つ構造ではない。

この物は、そのあとホノルル市カラカウ通1733エドワード・J・マウ氏が自宅の庭先に移されていた。

同氏は航空母艦エンタープライズの整備士、あとキャセイ航空日本駐在員を勤めた。

日本の航空会社社員山田清氏がマウ氏に要請して無償で譲り受け、運賃23万円を負担してコンテナ船

アメリカン・リバティ号18.877トンで輸送されたものという。

現物は1972年1月、神戸に到着した。山田氏は宝塚在住、当時37歳。

これが大戦中に使用された回天であると各新聞は報道したが、一型とは全然違う。

また、本艇はガダルカナル島ツラギの砂浜で米軍が発見したものという記事があったが、

これも取るに足らない話である。

しかし、日本の人間魚雷として評価し、自費で経費を負担してまで日本に持ち帰って戴いた山田氏の

御好意には関係者として深く感謝している。

 

現在の所有者である割烹料理『嵯峨野』の所有者中川 貢氏は、真珠湾に侵入した酒巻和男少尉搭乗の特殊潜航艇と

称していたが、当然ながら全く別のものであって、酒巻艇は現在米国テキサス州の二ミッツ博物館に保存されている。

 

全国回天会の河崎春美事務局長が現物について詳しく調査、採寸を行い、それに基づき私が描いた第2図は、

佐伯氏ほかの話による回天十型と概ね合致しているようである。

従って、嵯峨野の「特潜?」は横須賀で本格的に生産を開始する前に、呉工廠で設計し試作した回天十型である

可能性が極めて濃いものと考えられる。

戦局が逼迫して、魚雷に人が乗れる様に改造する努力が現地の各部隊でなされており、これもその一つかと

我々も初めは考えていた。

しかし、熔接工事がしっかりしており、熟練した工員の手による事を窺わせた。

水中抵抗の多そうな操縦室の形状も、整流鈑を付ければ解決するであろう。

更に電池魚雷を思わせる様に後部には充電の為と思われるコードも装着したままである。

当時の閲係者に随分とお尋ねし、物故者も多い事なので確言はまだ得られないが、我々の推定は略間違いないと思う。

 

◎回天十型の効果

沖縄確保の後、米車は二十年十一月一日を期して南九州一帯に上陸する、いわゆるオリンピック」作戦の準備を

進めていた。

宮崎県南岸、志布志湾、薩摩半島西岸の三正面に同時上陸をするものであるが、日本側もこの来攻をかなり的確に

予測し対抗策を採ろうとしていた。

水中特攻部隊についても、高知県から鹿児島県に至るこの地域に、回天一型の各隊を配置し、八月十五日の終戦までに

十一隊、八八基の進出を終えていた。

このほか、蛟龍二隊三十五隻、海龍四隊四十八隻も配備されつつあった。

 

回天十型は、計画ではあるが此の地域に五部隊二四〇基が並ぶ筈であった。

これらはどんな働きをするであろうか。

本来、我が方の艦艇、航空機が米国艦隊と戦い、撃退してくれれば特攻の必要はない。

しかし、量と質の圧倒的な格差から、特攻以外近づくことすら出来ない状況に追い込まれ、

日本の本土が戦場になろうとしていた。

軽巡洋艦、駆逐艦、更にこれ以下の小型艦艇にまで回天一型を搭載して出撃する事となり、その為の改装と訓練は

進んでいたが、夜にせよ昼にせよ戦場に辿り着ける可能性は果たしてどれ程あったか。

本土進行を前にして、せめて期待出来る我が方の海上戦力は、陸岸からする水中特攻兵器群が最上のものであったと

言えるであろう。

これらとて、事前の爆撃、砲射撃に堪えて壕や斜路の保全に成功した上、好目標を得て発進出来る幸運を掴むことを

前提とするが、回天十型は小型ながらもその特性を活して、ほかの水中特攻部隊に劣らぬ効果を挙げた可能性が

あると考える。

 

1図:試作人間魚雷

第2図:回天十型試作基

 

海軍大尉 小灘利春

更新日:2007/09/17