海軍大尉 小灘利春

 

八丈要塞に白旗があがったとき

 

昭和58年 7月31日 南海タイムス

 

今年も終戦記念日が近づいた。

戦争の歴史が風化しようとしていろ今日、戦史を語る人の話ほど重量感のあるものはない。

小灘氏が敵≠フ米兵と 接することで変化した意識には、ここで改めて考えさせられる。

 

八月十五目の玉音放送は、隊の兵舎にあてていた八丈島三根村の蚕業試験場で聞いた。

即日、司令から連絡があったので、私たち回天隊員は整列してラジオに聞き入ったが、電波の妨害でもあったのか雑音がひどくて、

ところどころしか開きとれず、何か重大な事態を迎えたので、非常の手段によっても一層奮戦せよといわれているような印象であった。

三原山の中腹の谷間にある海軍の警備隊本部に行き、司令中川寿雄大佐にたずねたところ、

「戦争終結である。しかし背後に事情がおろかも知れないし、また、平穏裡に収拾がつくかどうからわからない。

戦機はこれより、かえって近づいたと思わわねばならぬ。島にくるものは撃滅する。

一層警戒を厳にし、士気を昂揚せよ」と指示された。

五月に島に渡ってきてから内爆撃に向かうB29の編隊が頭上を通過するだけで、ただ来敵を待っていたわれわれには

、まったく意外な出来事で惑乱を覚えるが、ともかく司令の指示は納得できる。

急速に戦闘準備をととのえ、われわれの回天が基地の洞窟から洋上の敵艦めがけて、いつでも発進できるかまえをした。

「貴様たちの命は貰った」と私が騒いだと、当時の搭乗員がいうのは、このころだったのだろう。

八丈鳥には木原少将麾下の各種部隊、兵力二万余。

海軍は八丈島警備隊と設営隊約二千名が配備されていたが、混乱もなく、軍隊の規律を保持して整然と復員をおえたのは、

離島という条件のほかに、右のように、一挙に虚脱状無におちいることがなかったからと思われる。

 

終戦秘話

十月になって望楼から戦艦接近の報があった。行ってみると米国の重巡クインシーと駆逐撃二隻、フリゲート一隻で、

島の武装解除にきたのだった。

沖の艦は主砲の俯仰旋回を練りかえし、われわれを威庄するかの如くであったが、私が渉外係となって八重根の港に行くと、

日本兵がたくさん見ているなかで、若い米兵が一人だけ呑気そうに立っており、交代がくるとヘルメットをポーンと投げわたしていた。

彼のズボンの膝はさけてパックリ口をあけたままで、服装態度に厳格なわれわれには奇異な感じであった。

武装解除の指揮者はクインシーの副砲長で、求められて握手をした手は柔かかった。

「俺は敗けていない。終戦前にきておればお前たちは回天の餌食だったろう」との自負で控えたが、

われわれの敵の概念とはどうもちがっていて拍子抜けだった。

武装解除の手はじめは、われわれの回天からとなり底土と石積の基地で、一・六トンの火薬を詰めた頭部は、

つぎつぎと切りはなして海中に沈め、胴体は洞窟に納めてダイナマイトを使い自らの手で爆破した。

あるときわれわれが処分の立合いに向っている途中で、陸軍側が勝手に爆破をはじめたことがあった。

いきなり車の近くで大爆発が起こったので、米軍将校たらはあわてふためいて、なにか聞き取れぬ言葉で私をこずくばかりである。

車を傍らの道に入れさせたが、破弾の破片が降ってくるので、またもや逃げだしたけれども、

その間私はまったく恐怖を感じなかったので、アメリカ人は意気地がないんだなあと内心軽蔑した。

ところが、武装解除のおわりごろ、悲劇が起こった。

三根の港で弾薬投棄作業中に、米兵がたばこをすったためというが、とつじょ埠頭で大爆発が起こり、山と積まれた火薬、砲弾が

つぎつぎと引火爆発をつづけ、この世の地獄の有様になった。

米兵ふたりと復員寸前にひかえた陸軍の兵士十数名が死亡したが、そのとき米軍の上陸用舟艇が、

黒煙に掩われつぎつぎと火を噴上げる波止場のすぐそばに近づき、海中に逃げて泳いでいる日本兵を艇内に引揚げてまわった。

自己の危急から逃れようとあわてるさま、そして他人の生命を救おうとしての挺身ぶりが自然に併存しているのを覚り、

私は深い感銘をおぼえた。

 

海軍大尉 小灘利春

更新日:2007/10/21