海軍大尉 小灘利春

 

第二回天隊実記C

平成 8年10月

 

戦争終結

八月十五日、玉音放送があるので全員が聞くよう、警備隊本部から予め連絡があったので、底土の隊員は

本部の蚕業試験場の広い板敷きの部屋に集まり、整列して聞いた。

ラジオのスピーカーから流れる声は、妨害電波の所為か強い雑書が入って、途切れ途切れにしか聞こえない。

陛下の御声とは思われるが、意味が全然掴めなかった。

多分、「非常の事態につき一層奮励努力せよ」との御趣旨であろうと推察して解散し、私は直ちにサイドカーを用意して

山の中の警備隊本部に向かった。

中川司令は

「これは戦争終結である。しかし背後に事情があるかも知れないし、また平穏裡に収拾がつくがどうかも判らない。

これまでよりも、戦機は却って近づいたと思わねばならぬ。島に来る者は撃滅する。一層警戒を巌にし、士気を高揚せよ」

と私に指示された。

 

戦争が打ち切り、とは予想しなかった事態である。

自分がどうあるべきか判断してきた基準が突如、消えてなくなった。

先ず胸に浮かんだのは「自決」であった。

「死にたい」という感情ではなく、「死すべし」という冷静な思考であった。

『国を守る』自分の任務を果たせぬうちに事が終わった申し訳なさが先に立った。

また、これまで略一年、常に或る日数以上の自らの生は脳裏に無かった。

共に死ぬ筈であった数多くの戦死した仲間、大津島の分隊員の顔が瞼に浮かんでいた。

だが、明白な眼前の急務は、「敵が来れば戦う」事である。

来れば真っ先に回天が発進する。

その機会が、この異変で一挙に早まるのではないか。

司令の指示は納得できる。気落ちしていてはならないこ自らを奮い立たせ、隊に帰り着くと状況を皆に伝えて、

何時でも回天が発進できる構えをとった。

「貴様達の命は薫った!」と私が叫んだ。

搭乗員達が戦後からかうのはその時の話である。

 

自隊装備の九三式全波受信機を自分の部屋に取りこんで、暇さえあれば内外の短波、中波の放送を聞いて

情勢把握に努めた。

通信兵が六名おり、各種電報を受信、翻訳しているが、さらに警備隊本部に時折行き、機密電報を調べたりして、

事態が段々と飲み込めてきた。

案の定、終戦後三日経ってからソ連軍が千島列島に侵攻、攻撃を仕掛けてきて双方に大量の死傷者を出していた。

 

敗戦のショックは、戦闘準備強化の時期を挟んでいたので徐々に来た。

隊内も、島内各部隊も、洋上の離島の為もあろうが混乱はなく、軍隊の秩序が復員が終わるまで整然と保たれた。

私の自決の思案もうやむやになった。

 

八月二十四日、陸海の全軍が一斉に実弾射撃を行った。

苦心して折角徹底的な戦備を整えた各陣地の砲と機銃を、一度も火を噴く事なく放棄するのは無念であると、

一日だけの集中射撃を実施した。

大型砲は殆ど、飛行場を指向していた。

その日、各方向からの砲弾が空を切り裂くシユルシユルシユル!という音が、一時期途切れる事なく頭上を飛び交った。

まさしく「十字砲火」 である。

回天隊は底土海岸で搭乗員・士官は拳銃で、他は全員が小銃で、浜辺に並べた標的を撃った。

今更事故があってはならないので、全部の銃口の向きに気を配りながら私が号令をかけた。

基地員に多くいた中年の補充兵の動作も結構きびきびしていたのは嬉しかった。

 

海軍全体の演芸大会も開かれた。

飛行場に大きな舞台が出来て各隊が熱演、回天隊は丹下左膳の芝居を披露した。

鈴木慶二上飛曹が左膳で大奮闘、女形の経験があるという整備員の山田登久男水長が櫛巻お藤、

陸軍部隊にいた歌舞伎俳優市川紅雀丈の指導を受けた甲斐あって、見事優勝した。

石積基地の倉沢栄治主計兵曹も、転勤の時どうやって運ぶのか心配になるほど大型のアコーディオンを抱えて、

玄人はだしの演奏をして二位。

実力が人気かはともかく、入賞の上位を回天隊が独占した。

 

米軍艦隊の来島

米軍が来たのは十月二十八日であった。

朝早く、見張り所から「アメリカの戦艦が現れた」との通報があったので、私はサイドカーに乗り西海岸、八重根の港に急行した。

沖に浮かんでいたのは新鋭重巡洋艦一隻と大型駆逐艦三隻、フリゲート艦一隻の艦隊であった。

巡洋艦は三連装の二〇サンチ砲九門の俯仰旋回を繰り返し、我々を威嚇しているように見えた。

この時、大発艇で米艦に赴いた中川司令は、戻るなり私に交渉状況を話された。

大発が旗艦の舷梯に近付くと、米軍は近寄るなと制止し、上の方から「回天はどうしているが?」と聞く。

司令が「回天は信管を外し、動けなくしてある」と、機転を利かせて答えると「それなら上がってこい」と、やっと乗艦を許され、

交渉に入ったとのここである。

回天を彼等が如何に恐れていたかの証明であろう。

司令の返答次第では米国の艦隊は直ちに一斉抜錨、戦闘態勢をとったかもしれない。

本当は、回天は何時でも動けたのである。

 

八丈島の武装解除は回天が真っ先であった。

旗艦は、ソロモン海で日本艦隊に撃沈された、先代「ウインシー」の代艦で、塗装も綺麗などカピカの新造艦であったが、

その士官が多勢ゾロゾロと底土海岸にやって来た。

艦長が「回天を二分間だけ見せてほしい」と、鄭重に私に言う。

二基ほど、壕の前の明るいレールの上に出していたが「どうぞ」と言うと、ハッチから艇内を除き込んで、

二分どころではない、長い時間見たあと感謝の言葉を述べた。

他の士官たちも代わる代わる覗いていた。

米軍の士官たちは打ち解けて色々話を始めた。

士官の一人に回天の戦果を聞くと、実に渋い顔をして「回天による損害は一切発表を禁じられている」と

言ったまま口を開かない。

知って居るのか、知らないのか判らないが、それ以上こちらも追及出来なかった。

私から同艦に海軍兵学校出身者は何人乗っているかと聞いたら、艦長と砲術長がアナポリス兵学校出だと言う。

乗員は一二〇〇〜二二〇〇人乗っており、士官は何十人かいる筈であるが、

上級の二人以外は全部予備士官とのことである。

艦長はかなりの歳に見えたが白人は老けやすいのであろう。

砲術長は背の高い、映画俳優のような好男子であったが、傲然と天を睨んで、我々のほうを見向きもしない。

プライドが高すぎる厭な奴だな、と反発を覚えた。

 

私の出身地を聞く士官がいたので「広島である」と答えた。

本籍と出身中学校が広島市、自宅は当時広島に近い呉にあった。

広い範囲で広島と言ったが、原爆を落とした奴等の反応を見たい気持ちもあった。

士官達は一様に気の毒がってくれたが、後の方でふんぞり返っていた砲術長が、いきなり私の側に駆け寄って

「両親は無事か?便りはあったか?」と、おろおろしながら聞く。

「判らぬ。便りはない」と、本当だからこれしか言い様がなかったが、彼等自身も原爆が何たるか理解しているのだな、と

若干心が収まると共に、昨日までの敵、米国人が共通して心に持つ善意を知り、目が覚める思いがした。

武装解除に来ても、私は米軍に頭を下げない積もりでいた。

確かに日本海軍は、結局は徹底的に叩かれて終わった。

だが、「回天は敗けていないぞ」と言う自負があった。

しかし米軍は以外なほど我々に低姿勢なので、拍子抜けがした。

海軍同志の誼で紳士的に振る舞うと言った感じばかりでなく、明らかに回天に対しての敬意を示してくれた。

『軍人としてそれぞれ国家のため戦う義務がある以上、意気地の無い軍人は軽蔑され、

良く戦う者は、敵味方を問わず尊敬を受ける』と言う事であろう。

 

クインシーの副長は穏やかな人物で、特に親切にしてくれたので、日本酒を一本進呈しようと言ったところ、

丁寧に押し止とめ

「好意は有り難いが、アメリカ海軍は艦内では酒は一切飲みません。日本海軍は軍艦で酒を飲んだから負けました」

と言った。

聞いた瞬間、相手の暖かい好意がジンと伝わって来た。

双方の海軍に、実力ではどれ程の差もなく、僅かなことで勝敗を分けたにすぎないと、

慰め且つ敬意を払ってくれていると感じた。 

酒は人を陽気にさせ、ストレスを消す結構なものであるが、過ぎれば緻密な思考力を失わせる。

有事に際し最大限の能力発揮を求められる軍艦では、やはり飲まぬに越したここはあるまい。

因みに、戦後日本の自衛艦は酒を積んでいないと言う。

尤も、ワインシーの別の士官は貰った一升瓶をジャンパーにくるんで、喜色満面と言った嬉しそうな顔をして艦に帰って行った。

色々あるわいなと思ったが、それはそれ。

 

回天の処置

底土基地見学に来た翌朝、米軍が来て回天の武装解除が始まった。

最初、米側は「トンネルの中で全部爆破する」と言ったが、私は「処分ならば、自分たちの手でやる。

だが、回天の火薬は一基で二・六トンだがら、山が吹っ飛ぶ。民家が迷惑するから駄目だ」と拒絶し、

実用頭部を切り離して海中に投棄し、胴体だけをトンネルに納めて爆破するよう主張して、その通り決まった。

頭部は四本とも、底士の溶岩を削った斜路から次々と海に落し込み、

トンネルに残る胴体は、自分たちの分身を葬るように我が手でダイナマイトを仕掛け、スイッチを入れた。

轟然たる爆発音と共に洞窟の入り口が崩壊し、中に入っての確認は出来ない儘に米軍はOKした。

 

石積基地の回天も同様、切り離した頭部を斜路から滑り落とそうとしたが、ウネリが入ってくるので、

多数の人員が海に入り声を揃えて押して行っても、海底に落込まない内に、次のウネリで又コロコロと転がり戻ってくる。

立ち会いの米軍下士官まで裸になって一緒に押し、これを繰り返していたとき、

ウネリで躍った二・四トンの実用頭部が私の目の前で搭乗員桜井貞夫上飛蕾を直撃、彼は頭に裂傷を負った。

ただちに、基地近くの末吉陸軍病院で手当てを受けた後、彼は暫く各地の海軍病院で治療を続けたが

「その年齢で上等飛行兵曹とは、余りにも進級が早すぎる」として官暦詐称の疑いを受け、苦労した由である。

私と一緒に底土基地からわざわざやって来て、危険な作業の先頭に立った、人一倍真面目であったが為の災難であった。

 

石積基地四基の胴体もトンネルに納めて爆破し、全回天の処置が終わったので、以後私は海軍部隊を代表して

武装解除の折衝に当たった。

米軍代表と一緒に島内の陣地を廻って処分方法を決めて行くのであるが、

彼等は持ってきたジープの、運転席と反対側の右席が最上だといって、私の指定席にしてくれた。

八センチ砲、十二センチ砲や機銃が八丈の民家に多い石垣の間など、思いがけない所に隠れて多数配置されていた。

巧妙さに案内する私の方まで驚いたが「爆破すると周囲の民家が傷む」と私が言えば、

米軍はそれぞれ砲身の一部を溶断するだけで済ませてくれたのは有り難かった。

南北の山地を繋ぐ平地の中央から南の山中に上って行く防衛道路という大きな道があって、

それを登った中腹に陸軍、海軍の司令部がそれぞれあった。

戦闘になった時、その入り口の急な坂道を爆破してしまえば、あとは戦車が登れない崖ぽかりになる。

その防衛道路の途中に、最も重要と言える堅固な砲台があり、細い隙間から一四センチほどの砲口が飛行場を向いていた。

その時の武装解除指揮官はグイン中尉と言ったが「爆雷を使って爆破せよ」と言う。

砲台員達は厭な顔をしているし「砲台は使わなければ何れ埋もれてしまうから砲身を使えなくすれば済む」と私は言ったが、

それまで提案通り承認してくれていたのに彼は只一言「トラーイ!」と叫んだ。

結局砲台員に爆破するように伝えその場は済んだ。後で見ると砲台が割れていた。

米国人の思案より先ず手を出す積極性を教えられた一幕であった。

 

復員と弾薬爆発事故

十月に復員が始まった。

警備隊本部では「最初に回天隊が帰国してくれ」と言う。

「最後に島に来た新参者が、真っ先では申し訳ない」とは思ったが、隊員の為には遠慮しない方がいいと思い

有り難くお受けして、私だけ最後まで残ることにした。

優遇されたのか、物騒な連中だがら早く帰せ、となったかと考えたが、

多分、中央からきた復員要領に特攻優先(?)と書いてあったのだうう。

石積基地にいた隊員も蚕業試験場に移って来て底土組と合流、復員を待った。

その半数が海軍最初の復員船に乗り、残りが十一月九日に、神湊海岸の芝生の上に整列して乗船を待っていたとき、

いきなり目の前の波止場で大爆発が起こった。

大量の弾薬を此処で連日大発に積み込んで沖合に投棄しており、こぼれた黒色火薬が岸壁の上に厚く溜まっていたという。

作業立ち会いの米兵が煙草の吸い殻を捨てた瞬間に爆発したと聞いた。

山のように績み上げられた砲弾、火薬に引火して、爆発が連続花火のように切れ間無く続く。

我々には為す術もなく、帰国直前に隊員が怪我をしても詰まらぬので、破片が飛んで来ない所まで退避して、鎮まるのを待った。

陸軍の兵士が二四人、無惨にも故郷に帰る日を前に犠牲となった。

負傷者は約四〇名と言う。

米側も喫煙の当人が行方不明のほか、草むらの中に一人、着衣が全部燃えてしまったのか、脱ぎ捨てたか、

裸の白人兵が虫の息で倒れているのを発見し、米軍下士官を捜し出して渡した。

病院に収容されたが、全身火傷で助からなかったと言う。

二〇歳前の少年兵のようであった。

阿鼻叫喚の港で、作業中の兵士たちは海に飛び込んで逃れた。

港内の狭い水面に点々と頭だけが黒く浮かんで見えた。

「早く泳いで逃げてくれ」と心の中で叫ぶが、その黒い点は殆ど動いているように見えなかった。

泳げない人も多かったであうう。

その時、灰色塗装の米海軍の大発艇が、一面の黒煙に包まれて暗い中、爆発が続く港の狭い水路に乗り入れ、

機敏に一人一人拾いあげて廻った。

急激な前進・後進を繰り返すエンジンの、グォングォンと腹に響く唸りは今も忘れられない。

一人だけで舵輪とクラッチを操作して大発を操縦し、数人が艇首で日本兵を引揚げていたが、

彼等の勇敢さ、敵軍であった兵士達でも命懸けで救助する人道的精神に、私は深い感銘を覚えた。

 

ソ連許し難し

全島武装解除の作業も終わる頃、八丈島支庁長の世話で行政の中心、大賀郷にある旅館で、

米軍士官達と我々海軍側の若手士官との懇談会が開かれた。

日本酒のほかに八丈名物の焼酎が出たと思う。

途中、私は立って「このたびは、アメリカを理解する機会を得て、今はもう敵愾心は消えた。

ソ連の行動は、私は容認できないのであるが」と、ひとこと感想を述べた。

相手の同盟国への非難が当然反発を買うと覚悟しながらも、私は言わずには居れなかった。

たちまち、猛烈な反応が沸き起こった。

何とそれは「米国は今直く起って、ソ連を撃て」と言うのである。

和室なので座布団に座っていた米軍士官が、口々に叫ぶうちに興奮が高まり、全員立ち上がって拳を振り、

真剣な気勢を揚げていた。

ソ連は、日本が行詰まったのを見て、二発目の原爆投下の日に、日ソ不可侵条約を一方的に破って侵攻、

わずか一週間の戦争なのに、終わった後までも火事場強盗を働いていた

。世界が漸くにして得た安寧を再び撹乱するソ連に対して、たとえ味方でもその暴虐に怒る米国人の率直な正義感を、

私はまのあたり見た。思いがけない成り行に驚きながらも、一層の共感を私は深めていった。

 

大津島に帰る

生きて出るここはないと思い定めた八丈島である。

初めて島影を見た時「自分の命でこの島を護り抜くぞ」と胸の中で誓った、その美しく清らかな島を、

父母の安否も判うぬ状況にあった私は、後ろ髪を引かれる思いで離れた。

十一月下旬、司令ほかと共に海軍最後の引揚船、東海汽船の橘丸に便乗して神湊を出港、伊東の港に到着した。

伊東館という木造ながら大きな旅館が海辺近くにあって、八丈島海軍部隊の受入れ本部になっており、

ここに荷物をおいて東京に出掛けた。

海軍省に出頭して司令より報告、私は人事部の尉官担当、福地誠夫中佐から「解員・帰郷」の指示を受けた後、

ひとり大津島に向かった。

懐かしい島に着くと、活気に満ちていた基地がひっそりと静まり返り、知っている顔は主計長の窪添龍輝主計大尉だけであった。

私を見て「幽霊ではないか!足は…あるんだろうな?」とのご挨拶。

冗談を言う、と思ったが、どうも本気だったらしい。

十九年九月六日の大津島着任に始まった回天の勤めに、二十年十一月末日、再びは帰ることがなかった筈の島に

立ち戻って終止符を打ち、茫漠たる気持ちで戦後の人生に入っていった。

 

海軍大尉 小灘利春

更新日:2007/09/17