海軍大尉 小灘利春
第二回天隊実記@
平成 8年 1月
二十年四月の初め頃か、灯火管制で暗い大津島の士官室で、たまたま指揮官板倉少佐と私の二人だけが
向かい合って座っていた時、電信兵が一通の電報を回覧板に挟んで持参した。
一読した板倉少佐は「横鎮長官から回天一隊を八丈島に至急派遣するよういってきた。君、行け。」と、
即座に私へいわれた。
歓喜の衝撃が背骨の下端から頭のてっぺんまで、ズンこ一気に突き上げた。
後にも先でも経験がないほど強烈な喜びであった。
出撃すれば、そのあと僅かな日数で自分の生命は確実に断ち切られる。
それはすでに覚悟の上。
当時の戦局のもと、若人の使命を果たす意義が大きい。
回天部隊の搭乗員には、その喜びは、極めて自然な感情であった。
激しい感動に暫し浸っていたが、ふと疑念が湧いた。
「八丈島に、本当に敵は来るのか?」しかし、理性が効いて質問を呑み込んだ。
「横須賀鎮守府長官は当然、根拠があって八丈に敵が来ると判断し、要請されたものであろう。
一中尉のとやかく意見を持ち出すべき問題ではない」と考え、納得した。
八丈配備の回天隊は十二基編成。
受入れ態勢の都合上、取り敢えす八基を派遣すると言う。
出撃中の潜水艦が帰ってくれば自分の番、とそれまで思い込んでいたが、陸上基地の隊であっても、
回天十二基を率いるのなら光栄に思うべきである。
何はともあれ、待ちに待った出撃であると心は浮き立った。
板倉指揮官の決断はいつも速い。
開戦当時、真珠湾々口で防潜網に絡まりながら苦闘の末の脱出成功に始まり、幾多の困難な作戦に成功を収め、
数少ない生き残り潜水艦長となられたことは、武運に恵まれたと言うよりは、動物的とさえ言うべき直感力、
果敢な行動力に負うものと私は観察していた。
少なくとも潜水艦、駆逐艦など第一線の艦長として最高の資質を備えた人物との評価は誰が見ても変わらないであろう。
偶然の一場面にも現れた迅速な決断が、私を一転して八丈島へ向かわせたのである。
隊の正式名は第二回天隊となった。
第一回天隊は同期の河合不死男中尉が隊長となり、隊員百二十七名。
二十年三月十三日、光基地から八基の回天を第十八号輸送艦に積載、全員これに便乗して出撃したが、
同艦は三月十六日正午、佐世保を発航、沖縄に向かったまま行方不明となっていた。
沖縄西岸に敵の大艦隊が出現したのは三月二十四日。四月一日からは沖縄本島への上陸が始まった。
八丈の至急配備も、事態が急追していると判断すべきであろう。
編成
第二回天隊の搭乗員、整備員と兵器は、大津島と光の両基地で半分づつ準備することになった。
各先任搭乗員は大津島の私と光の高橋和郎中尉、下士官搭乗員は訓練が進んでいる甲飛十三期出身の六名が
指名された。
搭乗員の氏名は下記の通り。
海軍中尉 小灘利春 海軍兵学校第72期出身 大津島
同 高橋和郎 海軍兵科第3期予備学生出身 光
海軍一等飛行兵曹 佐藤喜勇 第13期甲種飛行予科練習生出身 大津島
同 鈴木慶二 同 同
同 桜井貞夫 同 同
同 齋藤 恒 同 同
同 永田 望 同 同
同 山田慶貴 同 同
基地員は横須賀鎮守府所属の下士官が発令されて次々と集り八丈へ出発レていった。
八丈島は日本三大要塞の一つとして、ラバウルと並ぶ鉄壁の備えを誇っていた。
二十年二月、硫黄島に米軍が艦砲弾二十九万発を撃ち込んで上陸、迎え撃つ日本車二万は激闘二十六日の後玉砕した。
米軍の死傷二万九千人
。次に米軍が狙うのは優秀な飛行場を持つ八丈であううとは、関東を防衛する横須賀鎮守府としては当然に
予測するとこうである。
少なくとも、敵に取られては困る要衝である。
事実、連合軍総司令官マツカーサーは沖縄戦の後関東に上陸する意図であったと言うので、
横鎮の判断は的はずれではなかった。
ただ、日本本土の攻略に慎重を期した米軍統合本部は西からの島伝い策を決定し、昭和二十年十一月一日、
九州南部に上陸する計画のオリンピック作戦を米国大統領は承認している。
関東平野にはその後にコロネット作戦として上陸し東京へ進撃する計画であったので、八丈も早かれ遅かれ
米軍の攻撃目標になったであうう。
八丈に赴く第二回天隊の壮行式は五月八日、第二特攻戦隊本部のある光で行われた。
見慣れた通りの型であるので戸惑う事もなく、淡々と行事が進行した。
八名の搭栗員は湊川神社宮司の筆になる「七生報国」の鉢巻を着け、連合艦隊司令長官豊田副武海軍中将が
揮毫された「護国」の短刀を第二特攻戦隊司令官長井満少将より授けられた。
記念撮影も幾通りか行われた。
大津島の隊員は、一旦島に戻ったあと、父母に最後の別れを告げるため、それぞれの故郷に向かった。
佐藤喜勇一飛書は実家が函館にあり、青函連絡船の安全が保証されないので帰郷を断念し、私と同行して
五月十五日大津島を出立、途中呉にあった私の家に一泊して横須賀に向かい、爆撃を受けて途切れ途切れに
運転される列車を乗り継いで十七日に到着した。
一方光基地組は五月十日朝出て故郷に帰った上、横須賀に集合し、第二〇号一等輸送艦の入港を待って便乗した。
同艦は五月二十一日大津島で、二十四日光で、それぞれ回天を積んだ上横須賀に寄港、
三十日午後発、館山で仮泊し二十一日朝、八丈島洞輪沢の泊地に着いた。
横須賀から八丈へ
その間、横須賀では随分待たされた。
私は到着次第、鎮守府に赴き八丈島に急ぎ渡りたいと申し入れた。
対応して貰ったのは航空参謀畠山国登少佐であった。
少佐は真剣に渡島方法を調べられたが、直くにはなかった。私の胸の中には第一回天隊の不運があった。
同隊は搭乗員と回天兵器の全てを一隻の輸送艦に積み、一挙に失っている。
我々の場合、危険分散のためでも兵器を分けて運んでくれとは言えないが、搭乗員が別れて海を渡ることは可能であり、
その方が良いと考えた。
あの頃、兵器は勿輪貴重であるが、訓練をつんだ搭乗員はそれ以上にかけがえのない戦力である。
基地整備を急ぐため、少しでも早く島に渡りたい一方、万一を恐れて大津島の組だけが先発することに
私の独断で決め、主張した。
畠山参謀は横須賀鎮守府長官、戸塚道太郎中将に私を紹介された。
激励の言葉を頂いたが、大柄で容貌魁偉、頼もしいかぎりであった。
さて参謀には毎朝会って催促するが、一向に便がない。
一式陸攻が八丈に飛んでいるとの噂を蘭いたのでお願いしたら調べてもそんなものは無かったと叱られた。
実際は館山航空隊から八丈に残した資材を内地に引き取るため毎日飛んでいたが、横鎮には知らさなかったのであうう。
第一四五号二等輸送艦が我々の前に八丈に向け出港したが、艦載機の銃撃を受け蜂の巣の様に穴だらけに
されて戻ってきた。
便乗していた第二回天隊基地員の先任下士斎藤三吉上等兵曹は戦死、赤地馨上等機関兵曹は負傷し退隊した。
横須賀から一五〇浬足らずの八丈ですら無事に渡れると考えてはならなかった。
朝、八丈行の便がないと判ると、その日は待つほが無いので出来る範囲で歩き回ったが、赴任途中のため
搭乗靴のままであった。
下士官搭乗員が市中で巡邏に咎められたので、私が証明書を書き携帯してもらった。
横須賀航空隊には海軍の巡回パスで行けた。
訪ねてみると、我々72期のクラス首席である和泉正昭中尉が艦上攻撃機を操縦していた。
九分隊伍長であった71期肥田開大尉は艦上爆撃機の操縦、その他大勢の顔見知りがいた。
実験航空隊であるから新型機が色々あって、二〇ミリ機銃四艇を背中に斜めに取り付けた双発機、
ロケット弾を積む局地戦闘機雷電など回ってみると楽しかった。
和泉は小学校のときの同級生でもある。
その夜、彼は市内の料亭でクラス会を開いてくれ、八丈に敵がくれば一緒にやうう、
自分も突っ込むぞと童顔を輝かせ熱っぽく言ってくれた。
海龍部隊は横須賀工機学校の中にあった。同期生が沢山居り話を聞いたが我々とは違って、
なにかのんびりした感じであった。
やっと八丈行があり、二等輸送艦であったが便乗した。機銃掃射にも安全な場所を探したところ、米袋を積んだ船倉が一番良さそうなので、士官室が狭いこともあり、
格好良くはないがここを我々が陣取った。
館山沖で仮泊したあと、島伝いに南下し、八丈島東岸の神湊に着いた。
底土海岸の断崖が朝霧の中に黒々と見えていた。
更新日:2007/09/17