海軍大尉 小灘利春
第一回天隊々員の行動について
平成15年10月1日
第一回天隊の隊長河合不死男中尉以下127名は昭和20年3月13日、光基地を出撃した。
便乗した第十八号一等輸送艦は寄港地佐世保を15日出港した後、18日未明米国潜水艦スプリンガーと交戦、
魚雷8本の攻撃を受けて遂に粟国島北北西至近の地点で沈んだ。
輸送艦の乗員は艦とともに全員戦死と公表されており、事実と思われる。
便乗中であった第一回天隊々員は数人が輸送艦沈没の際の戦死とされる一方で、河合隊長が「慶良間島基地付近に於いて戦死」
また搭乗員二名ほかが沖縄本島にて戦死と公報に記載されている。
厚生省によれば「それぞれ根拠があって処理されたが、現在その根拠は不明」という。
付近の粟国島には誰も上陸した形跡はない。輸送艦沈没後の同隊々員の行動は今なお確かではない。
このほど富士山火山洞窟探検学研究会々長の洞窟探検家、立原 弘氏からこれに関連する重要な情報を頂いた。
要旨つぎの通り。
昭和20年3月23日米軍艦艇が那覇北西の慶良間諸島に来攻した。
それ以前の或る日、早朝に大発艇が慶良間諸島に入ってきて、傷病者を下ろし、燃料を補給した上で沖縄本島に向かったという。
回天隊には使命があり、また便乗者なので艦に留まって戦う責務はない。
魚雷攻撃を受けたのち、回天隊の隊員だけが輸送艦搭載の大発艇に移り、基地を目指した可能性は考えられる。
その場合、当時の風波と海流の方向からみて慶良間諸島にたどり着くであろう。
この情報は何年か前、立原氏が慶良間諸島を調査された折に地元民二人から聴取された内容であって、いずれも伝聞というが、
信憑性があると思われる。
現在は二人とも死去。(その折りの記録を立原氏は目下捜している由)
第一回天隊々員の戦闘、戦没状況を調査する上で誠に重い意味をもつ情報であり、可能なかぎり事実を確かめ、
その上で御遺族がたにもお知らせしたい。
当面調査したい事項
下記につき現地の村役場、島民、沖縄県庁、厚生省などで讃査、聞き込みが必要。
(1)大発艇の慶良間諸島寄港の事実調査
. @入港したのは慶長間諸島のどの島か?
. A入港した港名、或いは村落名は?(渡嘉敷島、座間味島が主要島嶼。港と村役場がそれぞれにある)
. B入港月日は?
. C大発艇の所属を知る方法はないか?(その頃、沖縄に向かった艦船は第十八号輸送艦以外にはない筈なので、
. 大発艇が立寄ったとすれば同艦の搭載艇と思われる)
. Dどの部隊、若しくは村落が支援したか?(海軍は配備されておらず、陸軍の○レ部隊が駐屯していた)
(2)寄港した大乗艇の状況璃査
. @何人ぐらい乗っていたか?
. A指揮者の名前は?
. B上陸した負傷者は何名くらいか?その氏名は?
(3)厚生省の第一回天隊長の慶良間島戦死説の根拠調査
. 慶良間諸島の埋葬場所、基地跡(?)
(4)第一回天隊の基地の所在地調査(慶良間諸島の可能性はあるか?)
(5)慶良間諸島で沖緒戦に参加した生存者を韻査、聴取
(6)来攻米軍側の資料調査
更新日:2007/10/21