海軍大尉 小灘利春

 

東京新聞

「回天」八丈島秘史 元隊長56年目の証言

平成13年 8月16日

 

やっと」派遣に歓喜

 

伊豆諸島・八丈島(東京都八丈町 )に残る、太平洋戦争末期の人間魚雷、「回天」特別攻撃隊

「第二回天隊」基地跡の洞くつ。

元隊長の小灘利春・全国回天会会長(78)=神奈川県在住=の証言から、当時を振り返る。

 

「死すべし」

一九四五(昭和二十)年、八月十五日。

司令から、玉音放送の意味は「戦争終結」だと教えられた時、当時二十二歳の小灘隊長(海軍大尉)は

自決を考えた。戦死した多くの仲間の顔がまぶたに浮かんだ。

八丈島に着任して二カ月半。生きては帰れぬ出撃に備え、底土の格納壕の回天内での陸上や

机上訓練の日々。結末は突然訪れた。

 

小灘さんは、海軍兵学校を卒業後、四四年九月、山口県・大津島の回天訓練基地に配属された。

最初の士官搭乗員三十四人のうちの一人だった。

死とほぼ同義語の回天隊配属。

しかし、「回天に乗ることができると知って、皆で大喜びしました」と、小灘さんは静かに振り返る。

米軍との圧倒的な装備の差、戦局の極端な悪化は、よく分かっていた。

世界が驚き、「非人道的」「狂っている」と非難もされた特攻隊。

しかし、小灘さんは「自分一人の死で、大勢の愛する日本の人々を救えるのなら、

これ(特攻)以外に方法はない。冷静に合理的だと判断した。そういう時代でした」と語る。

その一方、「でも、頭と心ではそう思っていても、体は死を拒絶していたのか、

突然、吐き気に襲われた」とも明かす。

着任の夜、回天創始者の黒木博司大尉(当時二十二歳)が、海で訓練中、回天が海底で動けなくなる

事故が起きた。

黒木大尉は、呼吸困難になりながら、艇内で事故状況や遺書を、ノートや内壁に書き続けた。

「死ヲ決ス、心身爽(そう)快ナリ」

絶筆は翌朝六時。「猶(なお)二人生存ス。相約シ行ヲ共ニス。萬歳(ばんざい)。」

 

暗い洞くつ 今は太陽に

 

回天は、訓練さえ危険な「必死兵器」だった。

黒木大尉とともに創始者である仁科関夫中尉は、大尉の遺骨を抱いて、十一月、出撃第一号となり、

南洋で戦死した。二十一歳だった。

翌四五年三月、兵学校72期の同期河合不死男中尉(当時二十三歳)も、隊長として沖縄に出撃途上、

戦死した。

四月ごろ。「一隊を八丈島に至急派遣せよ」と電報。

指揮官はその時、たまたま目の前にいた小灘さんに「君、行け」と命じた。

小灘さんは「やっと自分も」と喜んだ。「歓喜が頭から足先まで駆け抜けた。あれ以上の感激は今もない」

 

玉音放送の後、米軍は八丈島に上陸。「鬼畜」のはずの米士官らは極めて紳士的だった。

格納壕内で回天は爆破された。

自決の思いは復興への思いに変わっていった。

「生きて出ることはない」と思い定めた島を離れたのは十一月末だった。

その後、京都大学を経て、水産会社で南氷洋捕鯨母船に乗船。子供は三人。孫もできた。

全国回天会の設立は六二年。「生き残りは私くらい」と会長を務め続ける。

最初の士官搭乗員三十四人のうち、戦没者は二十八人。

第二回天隊のほかの七人は、町長や、プロ野球選手、農業、会社員になったが、既に四人が亡くなった。

「回天は空前絶後」。今後もないし、あってはいけないと確信している。

でも、平和なことが当然のような今の日本を見ていると、「平和を守り続けるには具体的な努力が必要」とも思う。

 

小灘さんは六五年以来、八丈島を五回、再訪している。

「観光にいい島だと、最近は思うようになりましたね」

今でも、心の中から、回天が消えることはない。

それでも、八丈島は暗い洞くつの島から、太陽輝く美しい島へと変わってきている。

 

   

太平洋戦争当時の小灘さん            八丈島に出撃する第二回天隊の壮行式     

 

八丈島・底土に到着した第二回天隊

 

海軍大尉 小灘利春

更新日:2007/09/09