海軍大尉 小灘利春
第18一等輸送艦の沈没時状況の調査について
平成11年 3月11日
第18号一等輸送艦は昭和20年 3月 9日、呉海軍工廠において竣工、直ちに第二特攻戦隊光突撃隊回天基地に回航して、
第一回天隊の回天8基を搭載、隊員127名が便乗して3月13日、同基地を出撃した。
佐世保経由、3月16日1200 護衛の敷設艇2隻とともに同地を出港、沖縄那覇港に向かったが、3月18日0000
27−00N 127−15E に於いて同行の護衛艦と分離したのち消息を絶った。
3月18日0800 那覇到着の予定であった。
米海軍の記録「第二次大戦米国潜水艦作戦史」および「第二次大戦米国海軍作戦年史」には米国潜水艦S−414“SPRINGER”が
第18号輸送艦を3月18日、26−33N 127−11E で沈めたと記載されている。
この地点は那覇の北西に位置する粟国島の南西、距岸3,000米に当たるが、有志が現地に赴いて調査したところ、
当時その付近で艦船の交戦が行われた形跡が全く認められなかった。
よって防衛庁海上幕僚監部に赴き事情説明の上、同潜水艦の当時の戦闘詳報を入手かた要請した。(91年 7月)
同輸送艦の乗員については、厚生省および防衛庁で長年にわたり調査を続けたが、竣工直後の戦没であるため
乗員名簿などの記録、書類が皆無であった。
また戦友会も存在しないため、手掛かりがなかった。
そのうち、乗組士官の氏名のみは海軍公報により捜し出し、特務士官および下士官兵については同艦の所属鎮守府があった
舞鶴市内の某寺を訪ね、その膨大な保管資料からそれらの氏名と当時住所を全部、ようやく拾い上げることができた。
これで乗員全員の225名の氏名と出身地、住所が判明し、同艦乗員名簿を当会で作成した。(95年12月)
また、便乗中の第一回天隊の隊員127名については、搭乗員以外の殆どは氏名の記録すら残っておらず、諸資料を調査し、
また広く各方面に照会した結果、これまでにようやく14人の氏名が判明したに過ぎない。
それも、輸送艦便乗中の戦死とされる6名のはかは、厚生省記録では沖縄の陸上戦闘で戦死したとされているが、
現在その裏付け資料はなく、当時の交戦状況、天候から見ても離艦し粟国島その他に上陸することは困難であったと思われる。
しかし断定は出来ないので、この点も引き続き調査を続けている。
米国潜水艦「スプリンガー」の戦闘詳報を91年8月に入手でき、これにより第18号輸送艦との3月18日未明における
交戦状況がかなり詳しく判明した。
輸送艦側の報告はもちろん皆無ではあるが、同艦の状態もこれによって或る程度は推察することができる。
「3月18日0000、護衛艦と別れたのち行方不明」とされていた第18号輸送艦は、同戦闘詳報によれば単艦で南下中、
スプリンガーの3回にわたる発射魚雷計8本にも及ぶ魚雷攻撃を受け、1時間の交戦の後18日0400
粟国島の北北西至近の 26−39N 127−13E の地点で目的地を前に雄図虚しく海中に姿を没していた。
もしも第18号輸送艦が那覇港に無事到着し、回天8基が配備についていたならば、間もなく進攻してきた米国艦隊に突入し、
華々しい戦果を挙げたであろう。
第一回天隊々員および同輸送艦乗員の無念は察するにあまりがある。
沖緒戦における戦没者はすべて、その氏名を沖縄本島南部の「平和の礎」に刻まれているが、第18号輸送艦乗員の全員および
第一回天隊員の氏名、出身地が判明している方々については既に刻銘を終え、残りは判明次第手続きすることとしている。
第18号一等輸送艦の沈没地点
第十八号一等輸送艦は昭和20年3月、沖縄に配備される第一回天隊を輸送するため那覇に向かって航行していたところ、
同月18日未明、米国潜水艦スプリンガーの魚雷計八本、一時間にわたる攻撃を受け、沖線諸島の那覇北西にある粟国島の
北北西約六〇〇〇米の地点で沈没した。
乗員 艦長大槻勝大尉以下 225名 全員戦死
便乗者 第一回天隊 隊長河合不死男中尉以下 127名 全員戦死
輸送中の兵器 回天 8基(爆薬量各1.55トン) 海没
沈没推定地点 北韓26度39分 東経127度12.6分(スプリンガーの戦闘報告書による)
推定水深 約1,000米
第18号一等輸送艦の要目(一等輸送艦第1〜21号 同型)
基準排水量 1,500t
水線長 94.OOM
幅 10.20M
喫水 3.60M
主機 9,500HP × 一軸(タービン)
速力 22Kt
備砲 2連装12.7センチ高角砲1基
荷役設備 13t デリック 13M中型発動艇1隻
搭載物件 14M 大型発動艇 × 4隻、水陸両用戦車、 甲種的(2隻)または回天(8基)
更新日:2007/10/21