海軍大尉 小灘利春
伊呂波会の思い出
平成12年 6月
この会が出来た頃、元回天搭乗員の私もお勧めを受けて参加しましたが、ビール一杯で顔が真っ赤になるたちなので
昼間の会合では勤務上具合が悪く、暫くは出席したものの、あとは心ならずも欠席ばかりでした。
今は会社勤めが終わりましたので極力参加するつもりでおります。
私は重巡足柄に乗艦中、潜水艦乗りを熱望して昭和十九年八月に潜校第十二期の普通科学生を発令されたのですが、
練習潜水艦で自習していていよいよ明日は開講というとき同期生数人とともに転勤になり、回天の搭乗員を命ぜられました。
潜水艦出身又は潜校を卒業して回天搭乗員となった人はかなり多く、兵七十期機五十一期が二名 (内一名戦没)、
兵七十一期が六名 (内二名戦没)、兵七十二期機五十三期が七名 (全員戦死)。
このほか受講取り止めの潜校学生が私を含めて九名おり内七名が戦没しております。
回天搭乗員の初期の主力は兵学校七十〜七十二期とコレスの機関学校出身者であり、この層は結局全部で三十名に
なりましたが、潜水艦関係者が前記のとおり二十四名と八十%を占めております。
兵七十三期機五十四期は合わせて三十三名が搭乗員になりましたが潜水艦関係者はいなかったようです。
戦没者はその内の九名です。
回天は艦長の命令を受けて潜水艦から出てゆく人間が操縦する魚雷すなわち超小型の潜水艦ですから、搭乗員は同じ
潜水艦乗りの一部との認識であり、少なくとも初期に於いては事実かなりの部分がそうでした。
伊呂波会の席上、講話に座談にいろいろと興味深い話題が出ますが、回天やその作戦についても新しい事実がたびたび
披露され有り難いと思います。
回天搭載潜水艦は計十六隻が延べ三十二回出撃し、泊地内次いで洋上の敵艦を攻撃しました。
内八隻が沈みましたが最終の多聞隊では六隻が参加、奮戦して戦果を挙げた上いずれも無事帰還しております。
回天は異常な兵器ではありましょうが、追い詰められた戦局、戦場では、日本潜水艦として最も効果を期待しうる戦闘手段で
あったと思われます。
五十余年前の潜水艦搭載回天の戦闘状況と戦果については内外の戦史研究家により既に解明されたかのようでしたが、
不明な点が今なお少なくはなく、誰も触れていない局面もあります。
また事実とされていた事柄さえ疑問が多々浮かび上がっております。
さりとて米側の記録ですべて終わるものでもないので、遅まきながら回天各隊の全行動について改めてあらゆる角度から
再調査を進めたいと考えます。
潜水艦関係者のかたがたには何事によらず正確な、又少しでも多く事実を私どもへお伝えいただきたいと願っております。
平成12年 6月16日 伊呂波会「三十周年記念誌」所収
更新日:2007/09/30