海軍大尉 小灘利春
人間愛の権化、回天の烈士
平成 6年 7月
このたび北海道回天会が発足の運びとなりお慶び申上げます。
かねがね期待しておりましたが、広大な土地での結成をよく達成されたものと、各位の此までのご努力に
改めて深い敬意を表します。
北海道出身搭乗員の数が多いのは、面積が広く人口も多いことから当然ですが、
ひとつには回天部隊最初の訓練基地大津島に十九年九月の開隊后、間もなく大量に着任した土浦航空隊出身の
甲飛十三期生一〇〇名のなかで、北海道出身者の比率が高かったことが主因でしょう。
その故に、古い者、上の者から優先出撃する原則が出来ていた回天部隊では、必然的に北海道から戦没搭乗員を
数多く出す結果となりました。
樺太出身の加賀谷武中佐は別として、回天搭乗員の戦死者は土空出身であったと記憶しますが、
詳しいことは記念誌本文に記載されることでしょう。
勿論、他の航空隊などからの搭乗員も北海道には数多いと思います。
回天は、正しく空前絶後の兵器でした。もはや同じ形で再現されることは無いでしょう。
しかし、その精神が今后の日本にとって無価値になるものではありません。
回天をはじめとする特攻は、当時の止むに止まれぬ必然性によって出現したものであり、その時の状況に身を置いて
考えることが出来る人ならば、誰にもこのことは理解できる筈です。
戦機に利あらず、マリアナ防衛線を奪われた后、日本国土は米軍の直接進攻に曝され、このまま推移するかぎり
本土上陸、陸上戦闘に入るのは時間の問題となっていました。
それは日本民族の大量死、乃至は滅亡を意味する。
戦争が良いの悪いの、誰の所為だのと言っても始まらない、眼前に迫った現実でした。
親、兄弟、愛しき者につらなる美しき日本の民族を破滅から護るためならば、我と我が身を弾丸に代えるほかはない。
これが日本の若者に出来る最大限の手段であり、回天はその最も効果的な兵器でした。
飛行機、艦艇、潜水艦が活躍して敵艦をどんどん沈めて呉れれば、通常の戦闘であり、何も特攻を考える必要はないが、
現実の戦場は圧倒的な米海空軍の物量、装備の前に、まともに戦える様相では無くなっていた。
回天はその文字どおり、救国の可能性を備えた兵器であり、比島の決戦場で為すことなく内地に引揚げて後、身動きならぬ
海軍が最も期待を寄せた戦法でした。
選ばれて回天搭乗員となった若人たちに、死を前提とした訓練を長期に亘り乗り越えさせたものは、日本武士の、
また海軍の伝統である敢闘精神ばかりでは無かったと思います。
むしろ、それを上回る使命感が原動力になっていました。
自分のためではない、他の多くの生命を救うための献身でした。
ヨハネ伝の「人がその友のために自身の命を捨てること、これより大いなる愛はない」との言葉のとおり、
最高の人間愛と言うべきでしょう。
回天の搭乗員は皆、表現はいろいろあっても同じ様な考えであったと思います。
私自身、これで目前の自らの死を納得しておりました。
日本人でありながら、日本の心が判らない人間が多くなった昨今、特攻の若人たちが如何なる状況のもとに、
何のために、どんな気持で自らの生命を捧げたのか、声なき声であった其の当事者たちが明らかにすることは、
戦没者に対する義務と考えますが、如何でしょうか?
生残った搭乗員一人一人が、出来るだけ多くの事実を語り、また書き記して、後の世の日本に伝えて頂きたいものです。
北海道は広い大地の故に将来性が豊かな反面、組織、運営には御苦労が伴うことでしょうが、
北海道回天会の活発な興隆、発展を期待してやみません。
続篇・追憶
大津島で共に日々を送った搭乗員一人ひとりの顔立ちや動作が、五十年も前の、しかも短い期間であったにも拘らず、
今も目の前に鮮烈に浮ぶ。
土空−○○名のなかの北海道出身戦没者については、追憶の記事がそれぞれ数多く寄せられると思いますが、
私なりに当時交した言葉から想い出をいくつか拾い上げてみます。
故川浪由勝少尉
身体が大きく、如何にも強そうな顔付き、身体つきであった。
彼が私に語ったところでは、小さい時から海上作業には慣れており、回天の操縦にも早く上達する自信があるとのことで、
その頼もしさが強い印象として残っている。
多々良隊伊五六潜で沖縄海域に向い、母潜は未帰還となったが、彼は蛇度発進して外洋の波涛ものともせず、
海に慣熟した実力を存分に発揮してくれたものと信じている。
故柳谷秀正少尉
小柄ながら貫禄があるなと私は感じていた。
彼の話では、男ばかり六人の兄弟の末弟であり、出征した兄の消息が判らなかったので、父上は兄の仇を討てと
彼に命ぜられた由であった。
轟隊伊三六潜でマリアナ東方海域に進出し、米国駆逐艦の連続爆雷攻撃を受けて断末魔の状態に陥った母潜から、
故久家 稔大尉とともに発進し、見事母潜を救った献身はよく知られている。
故芝崎昭七少尉
和服姿で日本刀の柄に手を置いた写真を彼から貰った。
強い意志を漲らせた眼光には迫力があった。
戦后母上をお訪ねしたが、詩吟一家であったようだが、更に彼は各種の武道にも精進する、
戦前では模範的な青年のひとりであったと確言できる。
硫黄島来敵の際、彼は伊三六八潜で出撃した。
母潜が還らず、攻撃の状況はまだ判明に至らないが、彼の降魔の剣の切れ味のほどを何とか権かめたいと思っています。
故森 稔少尉
予科練出身搭乗員の出撃第一陣として、故三枝 直少尉と共に、かなり早い時期に決まっていた。
貴重な人材とかねて思っていたが、多くの人が触れると思われるので、省略する。
故井出籠 博上飛曹
故夏堀 昭上飛曹
この両上飛菅は、共に色白、小柄で、何故かいつも二人で居るような感じがしてならなかったが、
第三十三突撃隊に配属され、宮崎県油津に揃って進出し、
しかも米軍機の機銃掃射を受けて二人同時に戦死を遂げてしまった。
聞けば土空でも同じ分隊であった由で、魂塊も並んで北海道の空へ戻ったかと、私は復員后、二人の戦死を聞いて想った次第。
回天写真集は平成四年に一年がかりで完成したが、個人写真は多数寄せられたものの、
頁数の関係で、生存者の分は殆ど割愛せざるを得なかった。
しかし、当時の写真はどれも良い顔をしているので、全国回天会の会報など、何等かの方法で、交互にでも掲載出来ればと思う。
また、回天について調査しなければならない事柄がまだ沢山残されている。
基地進出回天隊で言えば、第一陣として昭和二十年三月、沖縄に向った第一回天隊が便乗した第十八号輸送艦は、
行方不明になったとされている。
多数ある回天関係図書はそこで止まっているが、事実は米潜と遭遇し、三月十八日未明、三回に亘る魚雷計八本の攻撃を受け、
一時間の死闘の後、同艦は沖縄を目の前にして遂に沈没している。
個々の搭乗員はどうなったか、ここ何年も調査しているが、障害があって確かめられないが、何とか調べて発表したいと思っている。
また、回天最后の突撃となった一艇は、一万五〇〇〇トンの強襲揚陸艦(LSD)に命中したが不発、
そのあと駆逐艦を攻撃、命中したが爆発せず離れたあと、無念の自爆をした模様である。
本件も今まで記事が皆無なので、確認、公表の義務を覚える。其の他要調査の事実は多い。
因に、第二回天隊は昭和二十年五月、光で壮行式を挙げ八丈島に進出したが、甲飛出身搭乗員六名の内五名は土空、
そのなかの佐藤喜勇氏は北海道函館の出身であり、今も日本のラグビー界の世話をしておられる。
平成 6年 7月22日刊行 北海道回天会「『回天』と北の若人たち」寄稿
更新日:2007/09/30