海軍大尉 小灘利春

 

回天の黒木 少佐と第六潜水艇の佐久間少佐

平成14年 7月

 

○人間魚雷の着想

大東亜戦争の戦局が急迫するに及び、人間が魚雷に乗って敵艦を水中から攻撃する発想が各方面で生まれた。

昭和十八年、呂号第一〇六潜水艦の水雷長であった竹間忠三大尉は

「人間魚雷による肉薄攻撃の他、戦勢挽回の方策はない」

との意見書を大本営潜水艦担当参謀に提出している。

竹間大尉はその後、呂号第一一五潜水艦の艦長となって戦死した。(階級当時)

 

同年暮、伊号第一六五潜水艦の航海長、近江 誠中尉もまた、敵のレーダー、ソナーが発達した為に

苦境に立った潜水艦が、自らを守り、戦い続ける為の反撃手段として「潜水艦に搭載する人間魚雷が必要である」と、

血書して聯合艦隊司令部に送った。

近江中尉は、人間魚雷「回天」の訓練部隊であった第一特別基地隊(大津島分遣隊)に配属され、

大尉の最先任搭乗員となった。

終戦は第二三突撃隊の特攻隊長兼回天搭乗員として、高知県の海岸で迎えた。

 

巡洋艦摩耶の乗り組みであった橋口 寛少尉もやはり後に実戦に使用された回天と同じ構造の人間魚雷に着想、

一九年始め頃より度々採用の請願を繰り返していたが、同年八月、軍機兵器として別な経路で

既に実現に向かっていた回天部隊、一特基へ転属を発令された。

彼は搭乗員として出撃する直前に終戦を迎え、回天の艇内で自決を遂げた。

 

駆逐艦桐の水雷長、三谷与司夫大尉もまた、

「九三式酸素魚雷の卓絶した性能を生かす機会がなくなった。この魚雷に自分が乗込んで体当たりする他ない」

と考え、血書して人間魚雷採用の意見書を海軍省に提出、回天の搭乗員となった。

 

その他、現地部隊で魚雷に人間が乗り操縦出来る様に改造したもの、水中を潜航する艇体を新に製作し、

人が乗って攻撃しようとしたもの等が現れている。

日本海軍は伝統的に「決死隊」は認めても「必死の兵器」は許可しなかった。

それなのに、生きて還る事のない「人間魚雷」の構想を、幾多の困難を超えて遂に実現まで漕ぎ付けた上、

訓練の先頭に立ち、殉職した人物が、甲標的(特殊潜航艇)艇長の黒木博司少佐であった。

 

○黒木少佐の殉職

昭和十七年、潜水学校卒業に当たり、海軍機関学校五一期の黒木少尉は、主任教官、校長に甲標的乗員を請願して

動かず、異例ながら熱意を認められて機関科では初の艇長講習員となった。

呉軍港に近い倉橋島の大浦崎にある通称「P基地」が甲標的を建造し訓練する基地であり、

後に第一特別基地隊(本部)となった。 

早速、黒木少尉は機関科士官の本領を発揮して、初期の動力源が電池だけの、二人乗り「甲標的甲型」に、

ディーゼル機関と発電機をつけて行動範囲を広げた「乙型」の建造について意見を開陳した。

これを改良大型化した「丙型」、更には航走充電を容易にして、航続距離を飛躍的に伸ばした五人乗りの

「丁型(蛟龍)」も計画している。

一八年八月、潜水学校を卒業して甲標的に着任し同室となった兵学校七一期の仁科関夫少尉と協力して、

直径六一糎の九三式酸素魚雷を活用する人間魚雷の構想を掴んだ。

必死戦法に反対する部隊長山田 薫中佐と「特潜ではもう間に合わない」として激論を戦わせたが、

その指示を得て一八年十二月上京、海軍省軍務局員で潜水艦戦備を担当する吉松田守中佐を訪問し

「一人一艦、体当り撃沈して難局を打開する方策」としてこの兵器の採用を懇請した。

しかし「必死」の兵器は採上げるところとはならなかった。

 

一九年二月再度上京、陳情したが、折しもクェゼリン環礁を占領され、戦局は要衝トラック島が大空襲を受け

壊滅的打撃を被る事態にと、悪化の道を辿っていた。

遂に実験艇の試作にまで漕付けたのであるが、試作の人間魚雷も、条件とされた脱出装置が技術的困難から

頓挫しかけた時、脱出装置無用を主張して、漸く兵器採用が実現するに至った。

しかし、山口県徳山沖の大津島に開設されたばかりの基地で、一九年九月、搭乗訓練開始の二日目に

黒木大尉の艇は海底に突入し、無念の殉職を遂げた。

 

○佐久間艇長の殉職

日本海海戦の大勝利からまもない明治三八年七月に竣工した、

僅か五八トンの国産第二号の潜水艦「第六潜水艇」は、明治四三年四月一五日、広島湾新湊沖で実験潜航中、

事故により沈没、艇長佐久間勉大尉以下一四名の全乗員が凄烈な殉職を遂げた。

同日〇九四五、母艦歴山丸を離れ、艇の上に立てた通風筒を通して空気を取り入れながら、

主機であるガソリン機関を運転し潜航する実験を一〇〇〇から開始した際、その通風筒から海水が侵入して、

浮力を失った艇は一〇尋の海底に沈んだ。

電灯は消え、悪ガスが発生して、呼吸が苦しい中、司令塔の覗窓から漏れる僅かな光を頼りに艇長は詳細な遺書を認めた。

漸く艇が引上げられハッチが開かれた時、乗組みの一四名は一糸乱れず配置に着いたまま、絶命していた。 

艇長の遺書は「小官の不注意により、陛下の艇を沈め、部下を殺す。誠に申し訳無し」に始まり、

@全員が職を守って、沈着に事を処した事

Aこの事故により潜水艦の将来の発展を阻害する事のない様

B事故の原因と発生後の詳細な経過、採った処置

C平素の乗員指導と今後の乗員採用方針についての意見

D部下の遺族をして窮するもの無からしめ給らん事をと配慮を要請

E上司、先輩、恩師に別れを述べ「一二四〇なり」と記して筆を絶っている

 

その前年欧州で発生した潜水艦の沈没事故では、乗員が我先に脱出しようとして出入り口に殺到し、

折り重なって斃れていた。

その醜状とは全く異なり、第六潜水艇の乗員は死に至るまで、沈着に持場を守って乱れる事なく、

従容たる最期を遂げていたのである。

その事実、さらに艇長の遺書が公開されると、欧米各国の海軍はもとより、全世界に深い感動を呼び起こした。

第六潜水艇は呉の海軍潜水学校の校庭に置かれ「六号艇神社」となった。

記念碑が広島県と山口県の県境に近い新湊と、呉市内の鯛ノ宮神社にある他、

佐久間艇長の銅像が福井県小浜市の維新の志士、梅田雲滑の碑がある小浜公園に建立された。

生地若狭の三方町には艇長を祭る佐久間神社がある。

この遭難事件は、かつて軍歌に歌われ、また戦前は修身の国定教科書に「沈勇」の題で掲載されていた。

戦後の日本では顧みられる事は稀であるが、海外では今尚佐久間艇長の声価は高い。

 

〇二つの遭難事件の状況

これら二件の事故は、状況が非常に似通っている。

共に新しい兵器の開発初期の段階で発生した沈没事故であった。

第六潜水艇は、水中に潜れるだけと言う時代の潜水艇で性能が低く、水中速力三ノット、水中航続力が三時間程度と、

実用性のない短時間であったから、現在のシュノーケル装置に当る航続能力の延長策、及び水中速力の向上策が

当然考えられた。

しかし、潜舵の発想が未だなく、艇尾の横舵だけの第六潜水艇では、通風筒の先端だけを海面上に出して航走する

などと言った微妙な操縦は、実際は極めて困難であったと思われる。

通風筒の高さ以上に深く潜る時は、鎖を牽いてスルースバルブを閉鎖するのであるが、この潜航中通風筒が

水面下に没して浸水した時、バルブの鎖が切れた。

手で急ぎバルブを閉鎖したが及ばず、浸水多量となって沈没したものである。

危険な実験ではあるが、新兵器潜水艇の発達、実用の為には「通風簡航走」 「ガソリン潜航」に取り組むべき必然性が

当時あったのである。

 

黒木大尉が殉職した時の乗艇は、これまで誰も触れた人はいないが、兵器に採用された量産型の「回天一型」ではなく、

実験的に作られた最初の試作品「〇六金物一号艇」であった。

昭和一九年八月一日、兵器採用の決裁と共に、呉海軍工廠に対して「八月末までに回天一〇〇基を急速生産せよ」との

至上命令が出された。

戦艦大和他巨艦多数を建造した東洋一の大造船工場であるから、容易に達成出来る筈である。

それなのに、九月五日の訓練開始までに出来上がった回天は、何と『ゼロ!』だったのである。

待望した兵器はその後も暫くの間、基地に姿を現さず、私ども搭乗員ははらわたが煮えくり返る思いであった。

「誰の責任か?」は別としても「取返しのつかぬ怠慢であった!」と考える。

性能の不十分な試作艇、それも装備がそれぞれ異なる試作の三隻だけしかなく、黒木大尉を始め搭乗員として大津島に

集まった三四名の青年士官は、ともかくこの体制のままで訓練に挑み、操縦技術を開発するほかなかった。

戦雲急を告げる折、人間魚雷の戦力化は何よりも急務であった。

大津島基地の活動開始翌日の九月六日夕刻、風浪が強まる中、搭乗は始めての兵学校70期、樋口 孝大尉が操縦し、

黒木大尉が指導官として同乗して訓練に出発した一号艇は、泡立つ白波の中に姿を消して海底の砂泥に頭部を突っ込み、

浮上しなかった。 

 

〇二つの遺書

黒木大尉の遺書の内容は

「一八時二一分、樋口大尉操縦、黒木大尉同乗の第二号艇、海底に突入せり。前後の状況及び所見次の如し」として、

@事故発生の状況を経過を追って詳述

A事故発生後の応急処置

B事後の経過

C所見(事故防止対策、事故発生時の対策、反省、恩師先輩への感謝など)

D追伸として装備改善策、事後の依頼

 

ついで、辞世、遺品の処置を述べ、家族に別れを告げ、

「二二〇〇壁書す。天皇陛下万歳、大日本万歳、帝国海軍回天万歳」

と記し、署名している。絶筆は(七日)〇六〇〇であった。

 

この黒木大尉の遺書は多くの刊行物に紹介されているが、この遺書には前記の佐久間艇長の遺書に倣ったかのように、

多くの類似点が見られるのである。

黒木大尉は旅順港口閉塞の決死隊、広瀬武夫中佐を日頃尊敬し、その名が遺文に色々と残されているが、

佐久間艇長を語る言葉は見受けられないようである。

しかし、日本潜水艦の歴史に不滅の名を残し、全乗員の模範として敬慕された佐久間艇長が、

黒木大尉の行動の根源にあった事は疑いないところである。

図らずも同じ事態に立ち至った時、自然に同様な行動となり、同様な遺書となって現れたものと理解される。

 

沈んだ水深もまた偶然か否か、黒木大尉が記録した「深度一八米なり」は第六潜水艇が沈んだ水深一〇尋と一致する。

徳山湾内で突入した地点の水深は、同夜の高潮時、艇内の深度計が示した通り一八米になる事を、

当時の潮汐表を探して確認出来た。

何の因縁が繋がって居るのか、運命の符合を覚える。

 

双方の遺書とも、事故から教訓を得て再発を防止する様、対策事項を苦しい状態の中で整理し、綿密に書き残して居るが、

最大の懸念事は、いずれも事故によって潜水艦の、或いは回天作戦の、必要性が見誤られ、発展を阻害するのではないか

の一点であったと思われるのである。

佐久間艇長は

「我らは国家の為職に斃れしと雖も、唯々遺憾とする所は、天下の士は之を誤り、以て将来潜水艦の発展に打撃を与うるに

至らざるやを憂ふるにあり」

と同僚の潜水艦乗員諸士の勉励を望んでいる。

 

黒木大尉〈没後少佐)もまた、

「今回の事故は小官の指導不艮にあり。

何人も責めらるる事なく、またこれを以て〇六の訓練に聊かの支障無からん事を熱望す」

「必ず神州挙って明日より即刻体当り戦法に徹する事を確信し、神州不滅を疑わず、

欣んで茲に予て覚悟の殉職を致すものに候」

と記し、加えて樋口大尉(没後少佐)も、「犠牲を踏み越えて突進せよ」と書き遺したのである。

 

佐久間艇長の精神は、日本の潜水艦関係者全員を導くものとなった。

第二次大戦で用兵不適切などに災いされ、戦果は期待に及ばないまま潜水艦三一隻が戦没、一万余人の乗員が戦死した。

しかし、生死を超越して最期迄各自の任務に最善を尽す、第六潜水艇以来の潜水艦の不滅の伝統を守って、全乗員が敢闘した。

黒木少佐の殉職もまた、人間魚雷搭乗員たちの発奮を呼び、昼夜を分たぬ猛訓練に突進む起爆剤となった。

国家の為緊要と判断し、信念を以て使命に取り組む彼等の壮烈な殉職は、悲愴ではあったが、

日本海軍、更に水中特攻部隊を奮闘に導く、大きな原動力となって行ったのである。

 

海軍大尉 小灘利春

更新日:2007/09/24