海軍大尉 小灘利春

 

忘れ難い人たち 柿崎 實

平成12年 1月

 

山形 兵72期 天武隊伊47潜

昭和20年5月2日 沖縄サイパン線上 金剛・神武・多々艮隊と襲撃機なく四回目、航行艦襲撃第一陣で突入

 

柿崎中尉は空母瑞鶴に乗組中、海軍潜水学校学生を発令されたが、そのまま私(小灘)どもと共に回天搭乗員に転じ、

十九年九月より最初の人間魚雷訓練墓地、大津島において訓練を進め、

第二陣伊号第56潜水艦の先任搭乗員として十九年十二月二十一日に出撃、

アドミラルティ諸島セアドラ港に向かったが、同地での敵の警戒は厳重を極め、発進地点にまで進入出来ず、帰投した。

 

彼は山形県酒田中学の出身であり、温厚で無口、ポソッとして感情を余り顔に出さない、東北人らしい人物であった。

出撃前夜の基地では、他の同期生たちと同様、彼も宿舎で遅くまでかかって数通の遺書を私の横で書きしたため、

翌朝潜水艦に乗組み出撃して行ったのであるが、互いに僅かな日数の差で次々と帰らぬ出発をする身であるから

悲壮な感慨はなく、送る私は平然と「しっかり」と言っただけである。

そして彼は、日の目を見ない潜水艦でのアドミラルティ諸島往復四十四日間もの遠征を終えて還ってきた時も、

黙って部屋に入ってきて、忽ち以前の生活に戻った。

同期の回天隊員の間柄ならば、この明るく穏やかな雰囲気が当然のものと私達は思っているから、

いつも通りの彼の心の内まで、推し量る必要はなかった。

 

しかし彼は、長い航海の後、帰投した最初の内地、呉軍港の宿で居合わせた級友と酒を飲み、

独り声もなく泣いていたと、戦後になって聞いた時は、愕然とした。

無念ではあったろうが任務を果たせず戻ってきた事は些かも本人の所為ではない。

だが何であろうとも、歓呼の声に送られて華やかな出撃をしながら、皆の期待に応え得なかった。

身の不運を嘆くとともに、その事を理屈抜きに恥ずかしいと考えたのではなかろうか。

 

続いて彼は、神武隊の伊号第36潜水艦で20年3月2日出撃、硫黄島水域に赴いたものの、作戦中止となった。

折り返し3月28日多々良隊の伊号第47潜水艦で沖縄近海を目指して出撃したが、

敵駆逐艦と交戦、潜水艦は損傷を被って、三度めの引返しをした。

そして、洋上の航行艦盤撃に攻撃目裸を転換した天武隊の伊号第47潜水艦に4月20日、

彼以下六名は満開の桜の枝を抱いて再び乗込み、壮途に就いた。

5月2日、駆逐艦群に護衛された敵輸送船団に遭遇、漸く発進の好機をつかみ潜水艦を離れて突撃、

21分後に命中の大爆発音を潜水艦が聴いた。

その聴音の方向から大型駆逐艦を轟沈、と判定されている。

 

艇の故障や会散の機会がなかった為戻ってくる搭乗員が時折あったが、

基本的にはひとたび出撃すれば還って来ないのが回天の搭乗員である。

それを実に四度もの出撃を繰り返した後、漸く念願の任務を果たす事が出来たのであるが、

淡々として表情を変える事のない穏やかな彼も、我々の感覚を超えて、心中秘かに苦しむ事があったのかと、

彼の奮戦ぶりを賞賛する一面、今更ながらに哀惜の念を深めるものである。

 

野菊咲く我日の本をいでたちて 我は征き征く南のはてに

 

海軍大尉 小灘利春

更新日:2007/09/17