海軍大尉 小灘利春

 

忘れ難い人たち 加賀谷 武

平成11年 7月

 

樺太 海兵71期

金剛隊伊36潜

昭和二〇年一月十二日 ウルシー港内突入

 

加賀谷武中尉(当時)は海軍潜水学校第11期普通科学生の卒業に際し昭和十九年八月十五日付で

第一特別基地隊附の発令を受け回天塔乗員となり、九月一日大津島基地に着任された。

九月五日、訓練が開始されその二日目九月六日夕刻、天候の悪化するなか

徳山湾内の操縦訓練に出発した回天が海底に突入、行方不明となって、

操縦の樋口 孝大尉と同乗の黒木博司大尉、すなわち最上級搭乗員の二人が殉職されるという大事故が発生、

回天隊のスタートはまことに壮絶であった。

使命感に満ち、清新な緊迫感が日夜漲っている回天隊にあって加賀谷中尉は穏やかで、いつも微笑を絶やさず、

春風駘蕩とした感じであった。

大津島基地では、その点で異色の存在であり、特に同期の仁科中尉とはすべてに対照的であった。

威厳よりも親しみの人であり、ときには陽気そうに見える雰囲気の暖かさは貴重であり、ありがたかった。

指揮官板倉光馬少佐が戦後出された著書に、加賀谷中尉の面目躍如という光景が述べられている。

引用すると、

「訓練的を見失った監視艇から無線連絡が入り、捜索艇を繰り出したが、杳として消息が分からない。

さては黒木と樋口の二の舞かと、騒然となったが、当日は海面が平穏で、海底突入の事故は考えられない。

念の為浮上点付近を潜水夫で探らせたところ、海底に沈座していた。

おまけに、待ちあぐんだ操縦員は、応急用のウイスキーに酔っ払って、引揚げた時は高鼾で眠りこけていた。

加賀谷中尉が一躍有名になったのは、この時からである」。

十九年十一月進級して加賀谷大尉となられ三十日、金剛隊伊号三六潜水艦で出撃されたが、

同艦の回天塔乗員四人はいずれも情に厚く、乗組員たちに慕われていたと聞く。

寺本艦長は、僅かな期間ながら印象が深かったと見えて、「よほど肝が出来ていたと見える」と、

加賀谷大尉を評しておられる。

当時の先任搭乗員であった加賀谷大尉が乗り込まれた伊三六潜は十二月三十日大津島を離れ、

敵の大艦隊が終結するウルシー島の泊地攻撃に向かった。

各艦の攻撃日を、伊四八潜のほかは二十年一月十二日と決定された。

この日未明、伊三六潜はウルシー環礁の北西水道西方6.5浬の地点から四基の搭載回天を発進させた。

最初に加賀谷大尉の艇が〇三四二順調に発進して行き、予想時刻に四回の大爆発音を潜水艦が聴取している。

それらの戦果は、今尚全てが明らかになっていないが、弾薬輸送艦の「マザマ」が、回天が艦底の下を通り過ぎた

後に爆発し、その為轟沈こそしなかったが大破して、多数の死傷者を出した。

この他に、揚陸艦LCI600号が沈没したとそれぞれ報告がある。

第六艦隊は金剛隊伊三六潜の挙げた戦果を「有力艦船四隻轟沈」と認定し、

紀元節の二月十一日豊田副武連合艦隊司令長官より金剛隊に対し感状が授与され、

搭乗員は二階級特進の栄を受けた。

 

回天の搭乗員たちは、国民を国土を護る為、これが一人の若人が採り得る最善の道と考えて、

夫々には掛替えのない命を進んで捧げた。

彼等の心の中には突きつめた愛国の至情とともに、大津島での日常にみる通り、

自らの能力を最大限に発揮する日を待つ明るさがあり、結構楽しく過していた。

その要素の典型的な体現者として加賀谷中佐がおられ、元気明朗な雰囲気の源となっておられた。

今改めて中佐の、別な形のリーダーシップへの認識を深め、あたたかい人柄を偲ぶ次第である。

 

海軍大尉 小灘利春

更新日:2007/09/12