海軍大尉 小灘利春

 

忘れ難い人たち  伊東 修・有森文吉

平成13年 2月

 

伊東 修

鹿児島県、海軍機関学校54期 回天搭乗員、少尉。没後大尉

 

有森文吉

佐賀県、水雷科下士官 回天搭乗員、上等兵曹。没後少尉

 

ともに昭和20年1月12日パラオ・コツ ソル水道に突入戦死。 

 

回天特別攻撃隊金剛隊の伊号第53潜水艦は回天四基を搭載して大津島基地を出撃し、

パラオ島の北にある米機動部隊め前進基地コッソル水道の攻撃に向かった。

昭和20年1月12日未明、最初に発進した久住宏中尉は直後に気筒爆破が発生して自沈、

久家稔少尉は悪ガス発生のため失神し発進中止、

伊東 修少尉と有森文吉一等兵曹の二基が発進して水道東側の入口を目指した。

 

広大なこの泊地を取り巻く環礁の東側は島がない。

白砂の上に椰子の樹が密生する南洋群島のイメージとは全く違って

、水面の真下一面に横たわる珊瑚礁の列にすぎないのである。

占領した側は通航可能な水路を選んで標識を立て、これを辿って艦船は暗礁の間を出入できるが、

眼高が低い潜望鏡ひとつで水路を探って入る回天にとっては入口が何処にあるかさえ、見分けがつかないのである。

戦後慰霊のため現地を訪問した人々は、攻撃地点に選んだこと自体が間違いであり、

二基の回天は進入できた筈がないと判断するはかなかった。

 

ところが回天は泊地の中に入って戦闘していた沌米艦の報告書が最近になって発見されたのである。

同日午前八時、戦車揚陸艦の一群は海面上を進む人間魚雷を真近かに発見した。

その進路上には大型の工作艦プロメテウスが碇泊していた。

気付いた周囲の艦は艦砲と機銃で猛烈な射撃を集中、回天は命中弾を受けながらも向きを変え、

一隻の四五米まで近づいてきて爆発した。

爆風は艦上の乗員を薙ぎ倒し、ハッチカバーを吹き飛ばした。

 

回天の発進は午前三時五三分であった。母艦を離れてから実に四時間あまり経って後の交戦である。

航行態襲撃の場合ならば全速三〇ノットを出すので普通は一時間内外の勝負であるが、

泊地攻撃の場合は経済速力の十二ノットならば約三時間半水中を走れる。

水上航走を長く使えば四時間後の戦闘はあり得ぬことではない。

しかし、限度一杯である。潜入して水中突撃するだけの燃料はもはや無く、弾雨のなかを水上航走のまま

最寄りの敵艦へ迫ろうとして遂に燃料が尽き、自爆したものと思われる。

困難な状況に屈せず、気力体力の限度まで悲壮な奮闘を続けたのである。

 

伊東 修大尉は鹿児島市出身の海軍機関学校第54期生。

重巡洋艦那智乗組を経て昭和一九年九月大津島に着任、回天の搭乗員となった。

健康そうな丸顔に明るい笑顔を絶やさなかった。

父上は海上輸送任務で既に戦死されていたが、翳りがなくいつもニコニコしている顔だけが私の思い出に浮かぶ。

沖縄で戦死した第一回天隊の隊長で一期上の河合不死男中尉も、

日記帳を兼ねたような手製のアルバムに「実にいい男だった」と、彼の写真の傍らに最大の印象を書き込んでいた。

大正十三年生まれの二十歳。

 

有森文吉少尉は佐賀県出身、鹿島市能古見小学校高等科を卒業して海軍に入った。

水雷科たたき上げの下士官で筋骨逞しく、見るからに頼もしい偉丈夫であった。

浅黒い顔に大きな目が印象的である。

九三式酸素魚雷の機構に精通していたが、回天の整備ではなく搭乗員になることを強く要請して叶えられた。

このとき採用された水雷科下士官の搭乗員一〇名は、負傷して整備員に戻った一名を除いて全員が出撃し戦死した。

回天最初の菊水隊出撃では搭乗員全員を士官だけで編成したが、第二陣の金剛隊で有森少尉は

最初の下士官搭乗員として出撃に加わった。大正七年生まれの二六歳であった。

 

コッソル水道で奮戦し、記録された回天は二人の内の誰が操縦していたか、判断する術はない。

どちらであっても不思議はない、体力に優れ使命感に満ちた搭乗員たちであった。

 

海軍大尉 小灘利春

更新日:2007/09/17