海軍大尉 小灘利春

 

忘れ難い人たち 今西太一

平成14年 2月

 

京都府出身、海軍兵科三期予備士官、回天搭乗員。

菊水隊伊三六潜で出撃、昭和19年11月20日ウルシー敵泊地に突入戦死。没後海軍大尉。

 

故・今西太一大尉は慶慮義塾大学経済学部を昭和十八年九月卒業、

海軍兵科予備学生を志願して水雷学校魚雷艇学生となったが、さらに志願して回天の訓練基地が創設された

山口県大津島に、最初の予備士官搭乗員十四名の一人として着任した。

初の回天特別攻撃隊菊水隊が潜水艦三隻を以って編成され、

今西少尉は伊号第三六潜水艦搭載の回天搭乗員となり昭和十九年十一月八日、大津島を出撃した。

二隻がカロリン諸島ウルシー環礁に向かい、二十日未明、伊四七潜からは回天四基が全て発進、

一方伊三六潜は三基が直前に発進不能の事態に陥り、今西太一少尉の回天ただ一基が発進して

北東の入り口からウルシー泊地へ突入もた。

発進した回天併せて五基はそれぞれどのように行動したか。

これまでの各種資料は時刻と地点の記述が明らかでないため漠然としていたが、

最近公開された米海軍の秘密資料を分析した結果、ようやく五艇それぞれの戦闘状況とともに、

終末の地点と時刻がほぼ確実に判明するに至った。

 

菊水隊の戦果は、艦隊と行動を共にする大型油送艦「ミシシネワ」一隻であった。

米国の或る熱心な戦史研究家が、多数の関連する艦船の報告書を入手して分析し

「ミシシネワを撃沈したのは今西艇である」と主張している。

その根拠は「同油送艦が停泊していたウルシー環礁の必部泊地は伊三六潜が攻撃を分担した水域であること。

また発進時刻の〇四五四から命中の〇五四五までの所要時間が順当であり、

且つ母港が爆発音を聴いて報告したこの時刻と、米側記録の命中時刻が合致していること」 である。

(日米双方の使用時刻帯がこの水域では同一である)

 

本年五月、米国海軍の潜水チームが初めて「ミシシネワ」の沈没位置を特定し、

潜水して損傷状況を調査、写真撮影を行った。

事実は、環礁内の北部泊地と伊四七潜が分担した南部泊地との中間に同艦は沈んでいた。

また爆発時刻の点では、今西艇はもとより、どの艇にも命中の可能性が成立するのである。

これ以上資料を集め検討を続けても「ミシシネワ」に命中した艇が誰であったかを特定することは永久に不可能であろう。

「菊水隊の五人が挙げた戦果」それでよいではないか、と私どもは考える。

米国の研究家にはその主旨を、根拠とする分析資料を添えて申し入れた。

 

水雷学校出身の兵科三期回天搭乗員で只一人生存する藤田克己氏は故・今西太一大尉の印象を

「京都弁のやさしい、思慮深げな友」と語る。

名高い京都市下京区東本願寺の御用達であった和菓子の老舗に育ち、温厚な人触りであるが、

芯のしっかりした外柔内剛型であった。

父上と妹フミ様に宛て出撃の朝したためた遺書には

「日本は非常の秋に直面しております。日本人たるもの、この戦法に出づるのは当然のことなのであります。

日本人として、この真の生き方の出来るこの私、親不孝とは考えておりません」

と、特攻に向かう真情を述べた上、家族ひとりひとりへの愛情と感謝を綴り、今後の幸せを願っている。

 

潜水艦には今西艇との間の交通筒がなく、沖合いで〇〇三〇に浮上して搭乗員が艇に移乗し潜航、

発進地点に進出した。

到着したのち、他艇が次々と故障を生じ発進が遅れているのを知ると、

その心優しく物静かな今西大尉は「では自分の挺だけでも早く発進させて下さい」と何度も電話で艦長に催促し、

決然と発進していった。

 

墓所は京都市東山区の大谷本廟にある。

 

海軍大尉 小灘利春

更新日:2007/09/17