海軍大尉 小灘利春

 

忘れ難い人たち 池淵信夫

平成12年 7月

 

兵庫県 予3期水雷 轟隊伊36潜

昭和20年6月28日マリアナ東方海域 敵大型輸送船攻撃 戦死

 

故・池湘信夫少佐は昭和十八年九月、志願して海軍兵科三期の予備学生となり、

魚雷艇の第一期艇長講習を経て人間魚雷搭乗員をさらに志願し、山口県の大津島基地に着任した。

昭和十九年九月五日に操縦訓練が開始された翌日、最上級搭乗員の二人が殉職する大事故が発生した。

徳山湾内の海底に回天が突入し、捜索、救助が荒天と暗夜(薄暮発進)の為に遅れ、遂に酸素欠乏となって絶息した。

艇内で二人が生存していたのは十二時間半であった。

この時の艇は試作品の第一号であり、操縦室の前方二空気蓄器が装着されていない為、普通空気量は大きいが、

完成的では操縦室の前が隔壁で仕切られるので非常に狭い空間になる。

その中で搭乗員がギリギリ何時間生存出来るか、人体実験をしようと言う話が研究会の席で出た時、

温厚な池淵少尉が即座に手を挙げて、「私がやります」と名乗り出た

海岸に据えられた回天の操縦席に独りで数時間もじっと座っていて、

外からハンマーで叩く合図に内側からハンマー応答して、生存を確認して貰う。

池淵少尉は生命の危険を伴う気力体力の限界のテストを淡々として成し遂げて一同の尊敬を集めた。

 

硫黄島に敵が来襲した際、池淵中尉(十九年十二月進級)は、神武隊伊58潜で出撃し作戦中止となって帰還、

次いで沖縄の敵軍上陸を迎えて多々艮隊の伊58で出撃したが、哨戒厳重と荒天の為攻撃の機を得ず、

再度の中止命令で引き返した。

その後、洋上を航行する艦船の攻撃に回天の使用方法が転換し、

池淵中尉は轟隊伊号第36潜水艦の先任搭乗員として昭和20年6月4日大津島を出撃、

6月28日サイパン島の東方海域を航行中の大型輸送船を発見して池淵艇一基が勇躍発進した。

目標は速力12ノット、方位角右90度、距離六、五〇〇米である。潜水艦が魚雷を発射するには距離が遠過ぎるが、

回天にとっては申し分のない態勢であった。20ノットで12分間走れば絶好の突入点に到達出来る計算である.

相手は砲多数を備えた大型の攻撃型輸送艦「アンターレス」であった。

至近距離に回天の潜望鏡を発見した敵艦は直ちに速力を一杯に上げ、

回避運動の転舵を続けながら五吋砲、三吋砲と二十粍機銃で回天の襲撃を食い止めようと懸命に射撃した。

突入してきた池淵艇は艦尾スレスレの五ヤード後方を通過。

反転し再び突撃して来て艦尾を僅か一〇ヤード外れて走り過ぎた。

繰り返す回避運動が効を奏して敵輸送艦は辛うじて逃げ切ったが、乱射した砲弾が自艦に命中して炸裂し、

士官と兵員合わせて十二名が負傷した。

 

池淵中尉は正式に結婚していた。光基地で訓練中に幼い頃からの許嫁と挙式し、

間もなく出撃を繰り返したので、実質的には七日間だけの結婚生活であったと言う。

妻帯者の特攻隊員とは我々には想像もつかなかったが、池淵中尉が新婚早々の最愛の妻をあとに

特攻に出で立った事は、自ら図難を救おうとの思いがそれ程に強かったものと、一段と深い感銘を覚える。

 

残された妻は再婚を考えず、子供はなかったが姪夫妻が養子になって由緒ある士族の家名を継いだ。

今も各地で催される慰霊行事に事欠かさず参列を続けて居られる。

出撃の日、若妻は光基地に近い山の上から、南の海に遠ざかって行く潜水艦を見送った。

その情景を偲ぶ歌は

若人は国を思いて出でゆけり 海の彼方に白波のこして

 

海軍大尉 小灘利春

更新日:2007/09/17