海軍大尉 小灘利春

 

散る桜、残る桜も散る桜

昭和51年 2月

  

献身の極致・久住 宏少尉

久住は武州(埼玉県)川越の名家に生れ育ったおっとりとした風貌と、気立ての良さを備えていた。

大津島の宿舎では、いつも朗らかな詰ばかりだったが、自身の名を残すことなど毛頭考えない、

献身の極致のような人物であった。

コッソル水道に近づいた伊五三潜の上で機械を発動し、固縛バンドを解かれて発進を開始した直後、彼の回天機械室は

突如火を噴いた模様である。発動と同時に発生する普通の気筒爆破ではないようだ。

この異変と二号艇久家少尉の悪ガス発生による失神事故のため、伊五三潜が五分の発射間隔を三十秒につめて、残る二基の

発進を終え、急速浮上したときには、火焔を吐いて浮かんだ久住の一号艇の姿は、そのときすでに見えなかったという。

薄明の、敵泊地の目の前で火を噴き、航走不能になったことを知ったとき、久住は直ちに燃料、空気を停めて火を消すとともに、

艇内に海水を入れて自沈したものと思われる。

母潜の所在を秘匿し、また後続各艇の行動を妨げず、攻撃隊全体の任務達成を図るため、

疑いなく彼はとっさにこの処置を考え、躊躇なくそれを実行したのであろう。

プラス浮量に調整され、現に海面に浮上していた彼の回天は水を入れて重くしない限り沈まないからである。

久住は兵学校生徒時代、日本の軍艦はもとより、米国のどの艦種のものでも、鋏一つで下絵もなしに、艦型を的確に切り抜いて

見せるという特技を持っていた。

数十隻いたといわれるコッソル水道の敵艦隊の中から、最も自分にふさわしい目標を選び出して突撃して行くはずであった。

だが機械故障の不運に見舞われ、その獲物を目前にしながら無念にも棄て去らねばならなかった彼の胸中を思うとき、

私は熱い涙を禁じ得ない。

動けなければ浮遊機雷とでもなって、自分の攻撃力を最後の最後まで生かし抜きたかったであろうに、その気持ちを押さえて

味方のために、従容として自らの身を進んで海底深く沈めた彼の献身″こそ、如何なる武勇伝に優るとも劣らぬ、

崇高な人間の生きざま、死にざまであった。

 

口数少ない不言実行派・土井秀夫少尉

大阪府出身で、高津中学から兵学校に入り、十八年に卒業後、航空母艦竜鳳で甲板士官勤務の後、大津島に転じて来た。

やや痩せ型であるが、第一の特徴は口数が少ないことで、真面目に動きまわっていた。

不言実行派で、宿舎の談笑のときにも変わった話はせず、もっぱら聞き役であったが、

意見は明快で、その声もしっかりしていた。 

硫黄島戦のとき、彼は伊四四潜で出撃したが、突入の機会を得られずに帰投し、続いて沖縄来襲の敵を求めて再び同艦で、

二十年四月三日大津島から出撃して行った。

潜水艦がそのまま帰らなかったため、発進の機会がつかめたのかどうか、確かなことはわからないが、

命中のその瞬間まで、いつものように沈着に回天の操縦を続けたであろう彼の姿が、私の眼前に浮かぶのである。

 

好漢真っ先に死す・吉本健太郎少尉

色はやや黒いが、引締まった顔と体謳、笑うと白い歯が印象的であった。

気分も爽やかで男らしく、女性にも人気があったようだ。

朝鮮の平壌一中から兵学校に入り、卒業後は十九年八月まで重巡高雄勤務のあと大津島に着任した。

回天の第一陣に選ばれて菊水隊伊三六潜に乗り込み、勇ましく出撃して行ったが、ウルシー泊地を前に発進するとき、

回天が架台から離れず他の二基とともに帰投、

続いて金剛隊が編成されると、伊四八潜で二十年一月九日出撃、ウルシーに向かった。

発進して敵泊地に突入した模様なので、無事本懐をとげたものと信じられる。 

歓呼の声に送られて潜水艦上の回天に立ち、日本刀を打ち振って華々しく出撃しながら、突入不能で基地に帰って来ることは、

本人のせいでは全くないのだが、当人たちはひどくそれを苦にしていた。

彼も心の中では悩んでいたであろう。

しかし彼は「やあ、帰って来たぞ」、迎えるわれわれもまた「ご苦労」だけで、以前と変わらぬ楽しい会話に入っていた。

大津島の宿舎では同室だったから、いろいろと話もしたが、彼もほかの同期生も生死の問題なぞ話題にしたことはない。

若干の技術的事項のほかは、愉快で気楽な話はかりであった。

苛烈厳粛な基地でも、宿舎の室内はいつも温かいムードでいっぱいだった。

好漢は真っ先きに死んで行った。

私も出撃の時機はわずかな時間の差で、すぐに後から出撃すると思いこんでいたので、別離の感傷はあまりなかった。

散る桜、残る桜も散る桜〃であろうか。

出撃者たちは、出発の前夜おそくまで机に坐って遺書を書き綴っていた。

こちらはその横のベッドでグウグウ寝込んでいる。

「遅いから明日にしたらどうだ?」とは言えないのだから、止むを得ない。

吉本は最後に七言絶句を作った。

意見を求められたが、わずかな修正などむしろ言わずに、本人の思うままにした方が遺すものとして価値があると考え、

その旨返事をした。

彼はこれを丁寧な楷書で奉書紙に書いて私に遺してくれた。

私は出撃のとき自宅に托し、これが後世に残ることを願った。

 

男子挺身赴国難 救国熱誠躍躯幹

快哉回天動地挙 降魔必殺応九天

 

昭和51年 3月 5日発行 回天刊行会「回天」所収

 

海軍大尉 小灘利春

更新日:2007/09/30