海軍大尉 小灘利春

 

轟隊 伊三六三潜の戦闘

平成18年 7月

  

伊号第三六三潜水艦は昭和十九年七月、横須賀海軍工廠で輸送潜水艦として竣工した。

十月に最初の任務として発航、トラック島とメレヨン島への食糧、弾薬、燃料輸送に従事し、

次いで十二月から南鳥島への二航海に就航した。

帰着して三月三十日から横須賀海軍工廠で回天搭載工事に着手し、完成して光基地に回航、五月三日夜に到着、

四日から駆水頭部付きの回天を搭載して「連合訓練」を開始した。

潜水艦が回天を搭載し、協同して発進作業と航行艦攻撃を行う訓練をこの様に称した。

 

昭和十九年から建造された伊三六一潜以降の輸送潜水艦 (潜丁型)十二隻は魚雷発射管を全く持たないものがあるが、

同艦は竣工当時から艦首に二本、装備された。

 

五月二八日〇九〇〇、回天特別攻撃隊轟隊の一艦として実用頭部を付けた回天五基を搭載して光基地を出撃した。

目指す水域は沖縄南東五百浬付近である。

豊後水道を暗夜南下して沖縄補給路の敵艦船の攻撃に向かった。

艦長は木原 栄少佐。

回天搭乗員は上山春平中尉 (兵科三期予備士官.航海学校、京都大学、和歌山県)

.         和田 稔少尉 (兵科四期予傭士官、航海学校、東京大学、静岡県)

         石橋輝好一等飛行兵曹 (第十三期甲種飛行予科練習生出身下士官、土浦空、東京都)

         小林重幸一等飛行兵曹 (同、土浦空、長野県)

         久保吉輝一等飛行兵曹 (同、奈良空、大阪府) の五名である。

 

六月五日、初めて回天戦用意がかかった。

搭乗員が乗艇して発進用意を済ませたが、荒天のため発進を中止した。

その頃は沖鳥島の北方三十浬付近で潜航中であった。

十二日に空母らしい敵に行き合ったが、発進には至らなかった。

 

六月十五日二二〇〇、伊三六三潜は浮上航行中、艦首方向の水平線上に灯火を発見し、急速潜航した。

艦長は直ちに「魚普戦用意」を号令、敵の接近を確かめて、二〇分後に更に「回天戦用意」の号令をかけた。

搭乗員は急いで身支度を整え、キリリと七生報国と墨書された鉢巻きを締めて先任搭乗員の上山中尉の周りに集まった。

「自爆装置の安全装置を解除する事を忘れるな」など、上山中尉が手早く注意を与え終えた頃「搭乗員乗艇。発進用意」の

命令が下り、各自は艦内から、暗いトンネルのような交通筒を昇って甲板上の回天に乗り込んだ。

敵は輸送船団であり、艦長は一先づ魚雷攻撃を試み、護衛の駆逐艦など反撃を受けたら回天を出す心算であった様である。

二二五〇、艦長は九五式魚雷二本を発射、二二五九、魚雷一本が命中した。誘爆音も二回聞こえた。

回天の操縦席に座って発進命令を待っていた上山中尉に、艦長が「命中したらしい。火焔が見えるから艦橋に見にこい」と

電話したので、上山中尉は交通筒から一旦艦内に降りて、司令塔に駆け登り、潜望鏡を覗かせてもらった。

「不思議に何の感慨もない。痛快とも、残酷だとも思わない。暗い水平線にほの明るく描き出された小さな焔の弧が、

ただ絵のように美しく眺められただけである」と後日京都大学名誉教授となった上山氏は当時の情景を回想している。

魚雷命中の後、攻撃も捜索も受けなかったが、伊三六三潜は直ちに哨区を移動した。

 

十八日夜に帰投命令がきて、念の為十九、二十日と、索敵を継続したが敵に遭遇する機会がなかった。

この出撃で回天は遂に発進の機会を得ず、潜水艦の魚雷攻撃による輸送船一隻の撃沈を報告するに止まった。 

伊三六三着は六月二八日、出撃基地の光ではなく平生に帰着して五基の回天を揚陸し、二九日呉に入港して

搭乗員たちは艦を下りた。

木原艦長は搭乗員に、よく冗談めかして「貴様らを輸送船なんかと引換えにする気持ちは無いからな」と言っていた

という艦長の言葉の通り、小さな輸送船が相手では有難くない。

しかし攻撃目標は輸送船であった筈である。

大艦と遭遇するまで待てば良い環境では、残念ながらなかった。

また艦長は、輸送船団を夜間魚雷攻撃したとき、一部の士官が回天の発進を強く主張したが頑として応じなかった。

当日は月齢四・九の細い月であり、しかも既に沈む頃である。

伊三六三潜は昼間用、夜間用と二本の潜望鏡を備えており、夜間用は対物鏡が大きい。

当然視野が明るく、倍率も十倍に拡大出来る。

その夜間用の潜望鏡ならばいざ知らず、回天が昼間用の特眼鏡で、暗闇の中、波の間を走りながら観測して

航行中の船を攻撃しても成算は低い。

「回天は出しさえすれば戦果を挙げる」と単純に考える向きもいたことであろう。

 

この伊三六三潜の報告に見る通り、命中音を一同が聞き、又艦長と先任搭乗員の上山中尉が潜望鏡を通して

火焔を確認している事から、魚雷が命中した事は明白である。

然るに種々ある海外戦史にはその記述がなく、記載も見当たらない。

事実の調査は残された課題である。

 

海軍大尉 小灘利春

更新日:2007/10/14