海軍大尉 小灘利春

 

天武隊 伊四十七潜回天の戦闘

平成17年 6月 7日

 

洋上を航行中の輸送船団に回天の攻撃目標を転換した「回天特別攻撃隊・天武隊」が伊三六潜と伊四七潜の二隻によって

編成された。

伊号第四七潜水艦は昭和二十年四月十七日、呉工廠の潜水艦桟橋を離れ、光基地に回航して回天を搭載し、搭乗員と整備員を

乗せて予定通り四月二十日、光基地を出撃した。

あと沖合で訓練を行い、平生基地に寄港して二二日午後発航、沖縄南東の洋上に於いて敵補給路を遮断する新たな作戦を実施

するため、一路南下した。

僚艦伊三六着も同じく二二日朝、光基地を出撃して徳山で燃料、清水を積載し、同日夕刻に、伊四七潜よりも二時間ほどの遅れで

豊後水道を通過して、沖縄/サイパン間の補給線に向かった。

 

艦長は最初の回天作戦菊水隊以来の折田善次少佐であった。

搭乗員は柿崎 実中尉(海軍兵学校七二期、山形県)、前田肇中尉(海軍兵科三期予備士官、水雷学校、福岡第二師範学校、福岡県)、

古川七郎上等兵曹(水雷科下士官、岐阜県)、山口重雄一等兵曹(同、佐賀県)、

新海菊雄二等飛行兵曹(十三期甲種飛行予科練習生出身下士官、山梨県)、横田 寛・二等飛行兵曹(同、山梨県)  であった。

 

伊四七潜は前回の多々良隊作戦で沖縄諸島周辺へ出撃し、直ぐに損傷を受けて引き返していたが、そのときと同じ顔触れの

六名である。

 

搭載した回天は今回、六基すべてに交通筒の整備を終えていた。

伊四七潜は敵潜水艦が潜伏する豊後水道を第三戦速二十ノットで之字運動を続けながら二二日二二〇〇、水道を突破し、

沖縄東方海域の洋上に向け、第一戦速で南下した。翌日早朝には敵機を電探で感知して潜航、暫くして浮上したところ、

近くに浮標が投下されているのを発見し、直ぐに潜没した。

内地を離れれば敵の制空権下であり、回天も何時会敵しても発進できるよう準備を完了した。

以後昼間は潜航、夜間は充電航走しながらの進出を繰り返した。新たに装備した指向性のある十三号対空電探が急速進出と

避退行動に効果的であった。

四月二六日、沖縄南東二〇〇浬圏の、グアムとを結ぶ線上の配備点に就いたが夜半、航走中に右舷主機の大馬力ディーゼル

機関に大きな破損事故が発生して、運転不能になった。

片舷機で行動しながら苦心の修理作業を続け、二八日までかかって復旧、あと沖縄とウルシーを結ぶ線の中間付近に進出して、

伊三六着からは南寄りに当たる沖縄南東の沖合を、東西に移動しながら哨戒した。

その間の二七日朝、多数の船のディーゼル機械音を遠くに聴いたが、攻撃できなかった。

なかなか敵船団と出会わないため、伊四七着は三〇日は三五〇浬圏に移り、五月一日再び二五〇浬圏まで戻って、

線上を移動しながら哨戒を続けた。

同日は荒天であったが日没直後に浮上して充電開始してのち、二〇〇〇頃レーダーで距離三五キロに敵船団らしい艦船を探知し、

極力接近をはかって、限度一杯の四千米まで近づき、魚雷四発を発射した。

艦長によれば命中の火柱が三本上がり、続いて爆発音三を聴いた。

潜望鏡による視認と聴音報告を総合して、一隻に二発が命中、あと一発が別の一隻に命中し、艦種は不明であるが

一隻の撃沈は確実と判断した。

反撃はなく、捜索も受けなかった。

柿崎中尉は「輸送船団ならば、是非とも回天を攻撃に使って下さい」と要請したが、艦長は暗夜に加えて時化でもあり、

拒否して魚雷のみの攻撃を行ったという。

 

翌五月二日、〇九〇〇過ぎ、聴音室が再び船団の音源を捕捉、距離八千米に敵船団を発見した。

「敵は一万トン級の大型油送船一隻、護衛の駆逐艦二隻」と、艦長の潜望鏡観測の状況が艦内に流された。

折田艦長は「魚雷戦、回天戦用意」を命令した。船団の針路北西、速力一〇乃至一二ノットであった。

駆逐艦の距離は約七千米。天候晴、海上は平穏であり、相手は大型、しかも低速。好目標である。

「一号艇、四号艇発進用意」の号令がかかり、柿崎中尉と山口兵曹は直ちに「七生報国」の鉢巻を締め、シャツと作業ズボン、

半長靴の、いつもの訓練と同じく身軽な服装で、携帯電灯と秒時計を首に掛け、それぞれの艇のもとに急いだ。

柿崎中尉はいつもどおりの淡々とした表情に二コッと笑みを浮かべて、擦れ違う乗員の激励を背に受けながら交通筒を昇り、

回天に乗艇した。

艦長は「各艇は発進後、針路三〇度、速力二〇ノットで十二分間、全没航走。第一回の露頂時の予想位置は、

駆逐艦の左前方約一〇〇〇米。あとは各自の観測に基づいて突入せよ。第一目標は油送船、第二目標駆逐艦」と、電話で命令した。

一号艇の柿崎中尉は距離約六千米で一一〇〇頃発進、四号艇山口兵曹も引き続いて一一〇五頃発進した。

柿崎艇発進から二一分経過、突如としてグアーンと回天命中の大爆発音が聞こえた。

余韻に続いてその五分後、第二の大爆発音が、いずれも船団音源と同じ方向で起こった。

潜水艦の乗員たちは大轟音を耳で聴いたあと、水中排水量三五六四トンの大型潜水艦の艦体がゆらゆらと揺らぐのを身体で感じた。

間違いもなく回天の、かなり近い距離での爆発である。

戦後の折田艦長の戦記では、このときの敵船団を「二本煙突の大型輸送船二隻、大型駆逐艦一隻」と記述されている。

 

その間、聴音室は又しても音源を捕捉した。「フレッチャー」型大型駆逐艦の二隻編隊、距離約四千米、中速力であった。

距離、態勢ともに魚雷攻撃の圏外であるが、回天ならば追撃ができると艦長は判断して、古川兵曹に乗艇を命じた。

艦長は発進後の針路、速力、全没航走時間に加えて「第一回露頂時の予想位置は左六〇度、六〇〇米の予定」と指示した。

二号艇は距離約七千米から一一二〇頃発進した。

回天と駆逐艦の両音源は段々と聴音の感度が微弱となり、約二〇分経過した頃には両方とも消滅した。

四八分後「駆逐艦と回天の感度が出ました」と聴音員が報告、やがて回天の推進機音が高くなり、大轟発音が長い余韻を引いて

潜水艦に伝わってきた。

伊四七潜は所在を知られたので、南東に高速で移動して索敵を続けた。

残る魚雷は十六本、回天は三基であった。

 

七日〇九〇〇、レーダーが約四〇キロに目標を捕捉、一〇〇〇すぎ、遂に音源を捉えた。

艦長が潜望鏡で英国の「レアンダー」型巡洋艦一隻、駆逐艦二隻を視認したとき、距離は約八千米、近接態勢であり、

速力は十六ノット前後、大角度の之字運動を短時間の間隔で行っていた。

天候は晴であるが、海上には少々白波があった。

艦長は強速で敵の前程に潜航進出をはかりながら「回天戦、魚雷戦用意」を号令、残る回天三基全艇の搭乗員に乗艇を命じた。

しかし距離がなかなか縮まらず、魚雷の射程に入らないので、先ず回天の使用を決心し、各艇に指示を与えた。

六号艇新海二飛昔、三号艇横田二飛昔の二基は電話機が不調になって聴き取れず、五号艇の前田中尉だけが通話できて、

伊四七着の前甲板から一一一五頃発進した。距離約八千米。

聴音によると、音源の感度は頻繁に高くなり低くなり、巡洋艦は右に左に大きく変針運動をしている。

海上の白波は回天にとっては被発見の機会を少なくし、むしろ有利であったが、命中予想時刻を過ぎた。

艦長は搭乗員が敵の回避運動を持て余していると判断し、有効射程一杯であるが魚雷を発射して、一発でも命中すれば

前田中尉の突撃を支援できると考え、魚雷四本の発射を用意した。

潜望鏡観測のため「深さ十九、急げ」と命じたとき、グワーンと大爆発音が一発響いた。

回天が発進して約二四分後のことであった。

 

伊四七潜は七日夜、浮上して沖縄/パラオの線上へ第一戦速で水上移動しながら、戦闘速報を発信した。

第六艦隊司令部から八日夜「伊四七潜の奮闘、大戦果を感謝す。直ちに作戦行動を中止し、呉に帰投せよ」との電報を受け、

北上して帰途に就いた。

十二日光基地に帰着して、発進できなかった二基の回天と搭乗員、六人の整備員をおろし、呉に十三日帰着して天武隊作戦の

行動を終結した。

 

ラジオは大本営発表を臨時ニュースで放送していた。

我が潜水艦が軽巡洋艦一隻、大型駆逐艦二隻、大型輸送船五隻を轟沈、輸送船二隻を撃沈、輸送船一隻撃破、

計十一隻の大戦果を挙げたというものである。

殊勲の潜水艦長の名は海軍少佐折田善次、同菅昌徹昭であると伝えた。

 

第六艦隊の司令長官は昭和二十年五月一日、三輪茂義中将が退任し、代わって経歴、識見、品性すべてに於いて、

潜水艦乗員たちの信望が高い侯爵、醍醐忠重中将が親補されていた。

第六艦隊司令部は、沖縄水域の潜水艦戦に於いて、大量喪失に加えて戦果が皆無に終わったあと、苦悩していたところであった。

天武隊の両艦が報告した大戦果を歓迎して、回天による洋上の交通遮断作戦の展開に踏み切った。

天武隊の戦闘詳報は現存しておらず、作成されなかったと思われるが、伊四七着については艦長が詳述した幾つかの手記のほか、

戦友会の会報、日本海軍潜水艦史の記述などが残されている。

合計五乃至六隻の、回天および魚雷で挙げた戦果を天武隊の伊四七潜は報告した。

しかし米国側の各種記録は、上記のいずれの攻撃についても認知していない。

いかにも、伊四七着が挙げた回天の戦果は、いずれも潜望鏡で命中、または沈没を目視したものではなく、聴音による推定ではある。

また、同艦から出た資料以外には、伊四七潜の攻撃による沈没も、損傷も、また交戦の事実さえ、証明する記録が目下のところ

発見されていない。

我々としては、交戦相手が輸送船団のほか、米機動部隊所属と思われるものがあって、該当する資料を今なお各方面で

調査中である。

乗組の機関長附佐丸幹男中尉の緻密な日記ほかによっても、柿崎艇の命中は近距離であったため、大爆発音とともに

潜航中の伊四七着の艦体が揺らいだという。

艦長ひとりではなく、伊四七潜の乗員各自の身体の上に、衝撃が確かな印象として残っているのであって、

しかも発進後僅か二一分の爆発である。

回天の命中、爆発は間違いないと確信される。

なお一号艇柿崎中尉と四号艇山口兵曹のうち体当たりした艦は、どちらがどちらに当たったか、判定できる根拠はないが、

柿崎艇が体当たりの難しい駆逐艦に、山口艇が体当たりしやすい輸送船に当たったのであろうと推定されている。

 

五号艇前田中尉が攻撃した巡洋艦を英国の「レアンダー」型と艦長は観測している。

「レアンダー」は英国海軍が建造して豪州に譲渡した軽巡洋艦であり、米艦とは違った特徴のある艦型であって、

特に煙突の形状は特異である。

しかし「レアンダー」は日本海軍の魚雷が命中して大破、沈没に瀕して米国まで曳航され、長期にわたる大修理を受けていた

時期であった。

同型艦であり、同様に譲渡された「アキレス」は、七〇三〇トンの軽巡洋艦であって「レアンダー」とともに豪州海軍の主力であったが、

日本海軍機の爆弾が命中して大損傷を受け、英国まで回航した。修理と改装が終わって二十年五月から米第五七機動部隊に

配属されていた。

沖縄東方水域を行動中であったので、前田艇が攻撃した巡洋艦が「アキレス」であった可能性があるが、確証はまだ得られない。

伊四七着の機関長付であった佐丸幹男中尉(当時)は米国の軽巡洋艦とも考えているという。

 

駆逐艦だけを目標にして、回天に攻撃を命じたことには問題があると我々は考える。

相手は之字運動は当然のこと、随時変針、変速しながら敏活な行動をする。

また、海軍の艦艇である以上、見張りには力を入れている。

回天は、発見される前に第一撃が功を奏すれば、軽快な駆逐艦であろうとも命中して、轟沈させるであろう。

しかし、発見されたのちでは、命中が著しく困難になる。軽巡洋艦であっても同様である。

回天は全速突入する前に敵艦の態勢を観測、確認するが、回天が観測するときは特眼鏡の先端を海面上に出すのではなく、

艇全体で浮上して、特眼鏡で見る。

浮上しても、水面上に出る部分は僅かであるが、波浪があれば艇体が露出することになって、高い艦橋からは見つけやすい。

最も問題なのは潜入する際、プロペラが波を蹴飛ばすと、大きな飛沫があがって発見されやすくなる。

駆逐艦を相手に遠距離から、しかも後追い態勢で発進させるのは、搭乗員に難しい課題を強いるものである。

潜水艦長が回天の攻撃方法を承知していれば、たとえ駆逐艦が厭な天敵であっても、回天に攻撃させることが得策ではないと

判断したであろう。

別の、効果的な目標を待つべきであったと考える。

また、駆逐艦を狙えという指示は無かった筈である。

 

航行目標に向かって突撃を繰り返した場合、回天は大体一時間前後で燃料が切れる。

それに近い時間が経ってのち、遠くから聞こえてきた爆発音だけでは、命中と確信できるかどうか。

自爆ではないとする根拠は、残念ながら、ない。

天武隊の伊四七潜は、どの戦闘でも爆雷攻撃を受けず、捜索さえもなかった。

駆逐艦は潜水艦を発見すれば当然、多数の爆雷を連続投下して、徹底的に攻撃する筈であるのに、誰もその爆発音を聴いていない。

発進した回天に対してもまた、阻止反撃のための爆雷の爆発音が聞こえていない。

また命中しなければ爆発しない「ヘッジホッグ」だけの攻撃は、この交戦では無かったようである。

反撃がないのは、彼らの行動目的からたまたま、余裕が無かったか、或いは駆逐艦の数が足りなかった所為かも知れない。

 

米海軍の弾薬輸送艦「マラソン」六八七三トンが昭和二十年五月二七日、伊四七着の回天の攻撃により撃破されたとする

戦史書が幾つかある。

米国務省ほか一部の公式文書にも「人間魚雷による」と記載されている。

しかし同艦は、その日はサンフランシスコ港内で停泊中であった。

大損傷を被った時期を五月と記したのは誤りで、七月の二二日である。しかも場所は沖縄本島東岸の「バックナー」湾、

即ち中城湾の入口に近い防潜網の内側であった。

「マラソン」は前日の二一日入港して投錨し、日付が変わった深夜の〇一三〇、突如として艦底で水中爆発が起こった。

艦の前部が大破、船倉に浸水して艦首が沈み、右に傾斜した。

同湾内に在泊していた救難曳船、戦艦、巡洋艦などから消防隊多数が来援して消火、排水につとめたので、弾薬輸送艦にとって

最悪の事態である引火爆発、或いは沈没する危機から、同艦にとっては幸運にも脱出することができた。

当時、晴天であり、空襲警報もなく、上空を飛行した航空機もなかったことから、艦長は「人間魚雷の攻撃による」と判断して

戦闘詳報を撞出したが、いずれにせよ伊四七潜ほかの潜水艦が、沖縄本島まで接近して回天または魚雷で攻撃した事実はない。

日本海軍の一式陸攻が四月十一日の夜間、中城湾に機雷(三式二号航空機雷)を投下しているので、錨泊中の「マラソン」が

たまたま同時刻の上げ潮に乗って艦体が動き、機雷の信管を作動させたものと推察される。

 

米海軍の輸送艦「カリーナ」満載排水量一一五六五トンが二十年五月三日、沖縄付近で損傷を被った。

一部の歴史家は伊四七着の回天による戦果に数えているが、これは詳細資料から水上特攻艇の攻撃であったと判断される。

また、二十年四月二十七日、輸送船「カナダ・ビクトリー」が沖縄本島西岸で沈没した。

これも回天の戦果と記述する戦史書が多いのであるが、事実は神風特攻によるものである。

それに近い水域で同日、輸送船「ポーズマン・ビクトリー」も損傷を受けた。船長は「人間魚雷による」と報告し、

公文書にもその様に記録されている。事実はこれも回天ではなく、水上特攻艇の命中であった。

 

天武隊の伊四七潜が光基地を出撃した期日についても記述によって食い違いがある。

同艦の出撃は四月二十日朝の予定であったところ、先任将校の水雷長、大堀 正大尉が健康を害し、呉工廠に入渠して

修理中であった伊五三潜の川本 昇大尉と、急遽入れ代わることになった。

前任、新任の両先任将校が乗艦して二十日朝、壮行の儀式ののち、予定通り基地を出撃した。

その上で、沖合で訓練を実施しながら引き継ぎを終え、平生基地に入港して大堀大尉が下艦、

伊四七潜は二二日午後に平生を発航している。

 

伊四七潜の内地出撃は記録上、四月二十日であり、折田艦長の戦記にも「伊四七着が伊三六潜よりも二日前に出撃し、

配備点にも二日前に着いた。

伊四七潜が前にいた水域で、あとから来た伊三六着が到着してすぐ、戦果を先に挙げてしまった」と記述してある。

しかし、事実は伊三六潜と同じ二二日の、二時間ほど早い内地出発であった。

しかも二七日朝、伊四七潜が潜航中にディーゼル・エンジンの集団音を水中聴音機で聴きながら、距離が遠いため

攻撃できずに見過ごした大船団を、伊三六着が攻撃したと見られるのである。

また、伊四七着の片舷主機械が運転不能になって、乗員が大変な苦労の上に修復した事故についても、艦長の記録には

触れられていない。

 

戦果として挙げられたなかには、著者たちが回天が発進した日付、或いは近い日の米軍艦船の損害を回天の戦果と推定した

錯誤があった。

しかし、回天のいずれの攻撃も、幻ではない。

天武隊伊四七潜の各々の戦闘は、今後なお調査すべき課題として残されている。

 

海軍大尉 小灘利春

更新日:2007/10/21