海軍大尉 小灘利春

 

多聞隊 伊五十三潜回天の戦闘

(第一部:アンダーヒル撃沈)

平成17年 9月15日

 

伊号第五三潜水艦はさきに「多々良隊」作戦に出撃するため昭和二十年三月三十日に光基地へ回航中、

基地手前の周防灘で米軍のB29爆撃機が秘かに敷設した磁気機雷に触れて大損傷を被った。

修理に長い期間を要したが、その間に前甲板の十四糎砲を撤去して回天二基分の搭載設備を増設、

また回天計六基全部に交通筒を整備した。

さらに「シュノーケル」装置を新設したので、潜没したままディーゼル主機を運転して航行し、充電も出来るようになった。

ようやく工事を終え、諸訓練を充分に重ねた上で、七月十三日大津島基地に回航した。

翌十四日朝、爆装した回天六基を搭載し、同日午後「回天特別攻撃隊・多聞隊」の回天搭載潜水艦六隻の先頭を切って

出撃していった。作戦水域は沖線とフィリッピンの中間海面であった。

 

艦長は大場佐一少佐。

回天搭乗員は大津島で訓練した次の六名で編成された。く()内は戦後の姓名〉

中尉 勝山 淳          海軍兵学校七三期、           水戸中学、   茨城県

少尉 開 豊興          兵科一期予備生徒、航海学校、    明治学院大学 秋田県

一飛曹 荒川正弘        第一三期甲種飛行予科練習生出身、法大工校、   山形県

  〃  川尻  勉         〃                     北見中学、   北海道

  〃  坂本雅刀(雅俊)     〃                     上野中学、   三重県

  〃  高橋(竹林)博       〃                     昌平中学、   北海道

 

伊五三潜は十四日の夜、敵潜水艦が待ち伏せしている豊後水道を「シュノーケル」を使って潜航突破、

二〇日頃バシー海峡東方海域に到着して哨戒配備に就いた。

同艦は以前触雷した際、艦体外面に取り付けた水中聴音器の集音盤が損傷を受け、聴音感度は大幅に低下していた。

そのことが戦場に到着したのちになって判明したので、やむなく普段は深度三〇〜四〇米で潜航していて、

三〇分毎に十八米まで深さを浅くし、潜望鏡を揚げては観測する手段を優先して索敵、警戒した。 

そのような状態で七月二四日一四〇〇すぎに潜望鏡を揚げたとき、敵の輸送船団を発見した。

伊五三潜の近くを通りすぎていったらしく、既に遠ざかりつつあった。

直ちに総員配置に就き「魚雷戦用意、回天戦用意」の号令が下って、搭乗員全員が回天に乗艇した。

しかし戦闘準備が終わった頃、方位角が一二〇度と大きく後落しており、魚雷で攻撃するには無理な態勢であった。

回天にとってもやはり不利である。

大場艦長は魚雷発射、回天発進ともに諦めようとした。

そのとき回天搭乗員たちが発進を強く希望したので、艦長は先ず勝山中尉の発進を決定した。

相手がどんどん離れてゆくので、艦長は急いで「艦は今、敵舶用の後方、東側にいる。

攻撃目標は輸送船」と命令、進出針路、航走時間など簡単に指示した。

一四二五頃、勝山中尉の一号艇は伊五三潜を離れ、敵船団へ突進して行った。

後続の発進は、艦長がこの態勢では成功の見込みが薄いと判断して取り止めた。

約四〇分後、目標の方向で重厚な爆発音を聴取して、艦長は一五一五頃潜望鏡を揚げ、敵艦が燃えているのを確認した。

同じく司令塔にいて補佐する航海長も潜望鏡を見せてもらったが、視野一杯に黒煙が立ちのぼっていた。

その黒煙が大量であったことから、回天が命中した相手は油送船であろうと推定された。

艦長は現場を離脱したのち「大型輸送船一隻轟沈」と第六艦隊に打電報告した。

 

このとき伊五三潜が遭遇した輸送船団は戦車揚陸艦LST七隻と冷蔵輸送艦「アドリア」満載排水量六二四〇トンであって、

これらを排水量一六七三トンの護衛駆逐艦「アンダーヒル」のほか、

四五〇トンの大型駆潜艇PC−803、PC−804PC−892、PC−1251、

一三〇トンの小型駆潜艇SC−1306、SC−1309、 SC−1315、

六四〇トンの護衛駆潜艇PCE−872の、合わせて九隻もの護衛がついていた。

沖縄戦線では六月二三日頃に組織的な戦闘は途絶えており、これらのLSTは休養のため引き揚げる米陸軍軌六歩兵師団の

兵士を乗せてレイテ湾に戻るところであった。

船団の隊形は、護衛を受ける八隻が二隻ずつ四列の編隊を組み、その中央の前方三千米に指揮艦「アンダーヒル」が位置して

先導し、ほかの駆潜艇が舶団の周囲を警戒しながら針路一八三度、速力九〜十ノットで航行していた。

船団は〇九〇七から約三〇分間、国籍不明機の触接を受けていたこともあり、同艦の艦長ロバートM.ニューカム少佐は

日本の航空機と潜水艦の攻撃を警戒して神経質になり、護衛艦艇の配備位置をしばしば変更し、

自艦が定位置を集れるときは代理の先導艦を指名した。

船団の使用時刻は日本時間と同じである。

天候は晴、視界は良好で微風があり、南からのうねりがあるが、海上は平穏であった。

 

先導中の「アンダーヒル」は一四一五、前方に触角のついた浮流機雷を発見した。

ニューカム艦長は船団を指揮して左四五度の緊急一斉回頭を二回続けて行い、遠ざかった上で、同艦は離れて機雷に接近し、

一四四〇、二〇粍機銃で射撃を開始した。

しかし弾丸が命中しているのに機雷は一向に沈まなかった。

その間の一四二〇、「アンダーヒル」は潜水艦の反応をつかんだので、PC−804を隊内電話で呼び出して調査するよう指示し、

そのあとも前面近距離に反応が出ていると重ねて通知し、誘導した。

PC−804は一四四二、左舷後方、至近距離に潜望鏡を発見した。潜望鏡は海面下に引き込まれ、間もなく同艇の艦底を

潜水艦が潜り抜けて行った。

続いて反対側の右前方一〇〇ヤードに潜望鏡が上がり、その下に潜水艦の艦体らしいものが海面近くに見えた。

同艇は直ちに四〇粍機銃と二〇粍機統で射撃を開始し、速力を一杯に上げたが、その物体は水中を高速で突進してきて

艦尾のすぐ近くを通過した。

爆雷を浅深度に設定して用意していたが、投下する暇もなかった。

同艦は直ちに「潜水艦が艦底の下を通過した!」と船団指揮艦「アンダーヒル」に報告した。

彼らは潜望鏡を見たので「潜水艦」と判断したが、これこそまさしく「回天」である。

勝山中尉が操縦する回天は最初にこの駆潜艇を攻撃し、その艦底の直下を通り抜けたのち、折り返して再度突入したのである。

船団は右九〇度の一斉回頭をして、元の針路に復帰した。

「アンダーヒル」は潜水艦を探知し、一四五三、浅深度に調定した爆雷十三発を投下した。

爆雷が海中で爆発して、奔騰する水柱が落下した跡に出来る、波が消えた丸い水面を見て、ニューカム艦長は

「潜水艦の油が浮いてきた」と思い込んだのであろう。

「敵潜水艦一隻撃沈!」と隊内電話で各艦へ放送した。

破片のようなものは浮かんでいなかった。

その直後、PC−804がまたもや潜望鏡を近距離に発見、「アンダーヒル」はこれに急行した。

潜望鏡はすぐに見えなくなった。

ニューカム少佐は「一人乗りの潜航艇が速力十五ノットほどで走り廻っている。

こいつを追いかける」と各艦に流した。

激しい操艦を続ける同艦で乗員は、海面上に「いるか」のように断続的に姿を現す潜航艇をいろいろな方向に見た。

一五〇五、「アンダーヒル」の艦長は隊内無線電話で「衝撃用意!海の中にいる異様な者どもを追っ払ってやる!」と放送した。

あと艦長は乗員に「衝撃用意!」を重ねて号令した。

一五〇七、「アンダーヒル」の前方、艦首に近いところに潜航艇が浮上するのをPC−804が目撃、「アンダーヒル」は右に

急旋回した。

「魚雷が突っ込んで来る!」と誰かが叫ぶ声が電話で聞こえ、その直後アンダーヒルの艦橋の右舷で物凄い大爆発が起こった。

煙と炎が一〇〇〇フィートの高さに奔騰し、煙はあと高さ二浬にまで立ち昇ったという。

「アンダーヒル」はマストのところで真っ二つになり、艦橋は消し飛んだ。

交戦地点は北緯十九度二四分、東経一二六度四三分であった。比島の北東端「エンガノ岬」から略東北東二七〇浬に当たる。

 

一五一二、PC−804がソナーで物体を探知、各駆潜艇は浮かんでいる「アンダーヒル」の後部の艦体の周囲を旋回し、

針路をジグザグに絶えず変えながら潜水艦探索を続けた。

PC−804は短艇を下ろして海面を泳ぐ生存乗員一七名を拾い上げたが、潜望鏡を発見してエンジンを掛けた。

その後「アンダーヒル」の後部に横付けして乗員を収容したが、その最中にソナーで探知し、潜望鏡を発見したので急遽中断して離れた。

そんな状況がもう一度あって、一七二六に他艇の援護、周囲警戒のもとに横付けをやり直し、生存乗員の収容を終えた。 

PC−803はLST−647に乗っている軍医と看護兵を自艇に移乗させ、PC−804に送ろうとしたところ、水中を高速で動く目標を

探知して追跡し、襲撃してくる敵を全速、舵一杯で回避した。

一六五六にも潜航艇を発見、三吋砲で射撃したが命中弾はなく、そのうち潜望鏡をまたもや近距離に発見した。

司令塔がついた、違った型の人間魚青であったと報告している。

同駆潜艇は一七四九、探知した海中の物体に「ヘッジホッグ」を発射、続いて爆雷を投射した。

しかしこれらは、すべて幻との戦闘に過ぎない。

 

「アンダーヒル」の煙突から後方の艦体は曳航可能と判定されたが、なお多数の敵が周囲に潜んでいると思われるので、

急ぎ砲撃して撃沈処分することに決定し、駆潜艇群が一列に並んで三吋主砲と四〇粍、二〇粍機銃の全砲火を一斉に集中した。

先ず艦の前部を一八二八に沈め、そのあと後部に取りかかったが、ようやく沈め終わったのは一九一八であった。

そのあとも各駆潜艇が「潜水艦探知」と通報し、各艇は全速で舵一杯の変針をして周囲を旋回しながら探索を行った。

敵の攻撃は受けなかったが、見えない敵に脅威を感じて現場を退去することに決め、全速で船団へ合流をはかった。

翌二五日の〇一四〇、各駆潜艇は船団に到着し、護衛任務に復帰した。

 

護衛部隊は、味方識別信号に答えないで触接していた飛行機は船団を偵察して情報を母潜水艦に送っていたものと推定した。

だが当時の日本の潜水艦隊はそのような横の連携をする作戦は考えなかった。

また弾丸が命中しても沈まない、

爆発もしない浮遊機雷は、敵潜水艦が船団を撹乱するために前路に放出した模擬機雷であろうと判断した。

だがそのような巧妙な戦術を採る発想や余裕は、日本側には全くなかった。

米国側の買い被りである。

 

「アンダーヒル」の生き残った乗員は何人もが、いろいろな方向に何度も潜望寮を見たと証言した。

艦の左右に同時に潜望鏡を見たという者もおり、周囲にいた駆潜艇もまた、複数の潜航艇を同時に見たと報告している。

駆逐艦も駆潜艇もぐるぐる走り廻っていたから、潜望鏡あるいは浮上した潜航艇があちこちに続けざまに見えたということ自体は

間違いとは言えない。

「アンダーヒル」が爆発した後にも、駆潜艇がソナーでたびたび「潜水艦を探知した」のは、高速で走り回る自分たちが起こす

波浪に反応した偽探知であった。

「潜望鏡発見」「潜航艇視認」は恐怖心が生んだ幻影であろう。

「アンダーヒル」で爆発が二回、続けざまに発生した、と主張する生存者がいる。

「一隻の潜航艇が囮となって駆逐艦を誘い、それを衝撃しようとして突進する駆逐艦の横腹をもう一隻の潜航艇が衝いた。

それで二つの爆発が略同時に起こった」と解釈するが、二回目の爆発があったとすれば艦橋の付近にある弾薬庫の誘爆と

思われる。

実際は、回天は潜水艦を離れたら通信手段は一切ない。

何基いても協同攻撃など、残念ながら出来はしない。

 

一四二〇に潜水艦の反応を探知して始まった対潜水艦戦闘は遂に二〇〇〇頃までも同じ水面で絶え間なく続いた。

護衛艦艇群は何度となく潜望鏡を発見し、またソナーで探知しては懸命に戦闘した。

しかし大部分は姿が見えない敵に全艦艇が振り回されたのであり、特に一五〇七の「アンダーヒル」爆発のあと、

爆雷投射までした長い戦闘は実在しない敵との奮闘だったのである。

母艦の伊五三潜も交戦が始まる前から後方遠くにいて、手出しができなかった。

本当の敵は勝山中尉の回天ただ一基だったのである。

勝山中尉は卓抜した技量を発揮し、負けじ魂で獅子奮迅の大奮闘を続けて、遂に敵駆逐艦を仕留めた。

誰が挙げた戦果であるかを確定できる、回天では唯一の戦闘となった。

最初のPC−804への攻撃は、同艇の喫水三米を深めに判定したための艦底通過であろう。

結果的にこれが、より大きな効果に結びついたと言える。

 

「アンダーヒル」の乗員は二三八名、うち約半数の一二五名が負傷者を含めて生き残り、一一三名が戦死した。

士官は一四名のうち一〇名が戦死した。

PC−803とPC−804はそれぞれ詳細な戦闘詳報を提出したが、沈没した「アンダーヒル」は艦橋にいた乗員が

艦長を含め全員戦死したため、回天との交戦状況を確実に記録できる者がいなかった。

生き残った士官の先任者は後部甲板にいた機銃群指揮官の中尉であり、両駆潜艇の資料を合わせ、

更に生存者の多数の証言を収めて戦闘詳報を作成した。

その報告書は「母潜水艦に積載された小型潜航艇または人間魚雷の協同攻撃を受けて沈没。

同様な潜水艦がほかに二隻以上、この攻撃に参加した可能性がある」と記載した。

PC−803も戦闘詳報で

「敵部隊は母潜水艦一隻、人間魚雷約八隻、さらにおそらく小型潜航艇一〜二隻で構成されていたと信ずる」と報告している。 

これまで同艦戦友会から再三の照会があって、全国回天会としては「勝山艇一基だけの攻撃」と答えるほかなかったのであるが、

この戦闘を体験した生存者たちは「相手はたった一人!」には今なお納得しかねる模様である。

 

この戦闘の状況は米海軍全体に伝えられ「海中の見えない脅威・回天」を畏怖する心理がたちまち広がったようである。

神風特攻機は突入してくる姿が見えるので対空射撃を集中して戦い、何とか防ぐ方法があるが、海中の見えない回天は

いつ攻撃してくるか分からない。

いるのかいないのか、それさえ分からない。自分が乗る艦がいつ爆発するかも知れないのである。

どんな艦でも、多数の回天に取り囲まれて協同攻撃を受けたらお手上げである。

このような海中の姿なき敵に、神経が参ったのであろう。

終戦後、米海軍の士官が私に「日本軍で怖いのは回天だけであった」と語った。

米側が実態以上に誤認した面はあるが、戦場の心理ではそれも無理はない。

「アンダーヒル」が撃沈された状況を伝え聞いて、米軍が改めて「回天」なるものを認識し、恐るべき敵として評価した

ことは確かであろう。

 

護衛駆逐艦「アンダーヒル」は、

「人間魚雷の群と戦い、自らは斃れながらも船団を一隻も傷つけることなく守り抜いた英雄」となった。

ニューカム艦長は勇戦敢闘を讃える栄誉ある銀星勲章(シルバー・スター)を授けられ、

戦没、戦傷乗員および生存者の一部に「パープルハート勲章」ほかの勲章が授与された。

メリーランド州の「アナポリス」にある米国海軍兵学校の教会で、戦友会が慰霊祭執行を許されている米国海軍の艦船は

唯ひとつ、第二次世界大戦で一番あとに沈んだ小さな護衛駆逐艦に過ぎない「アンダーヒル」だけなのである。

慰霊祭は毎年、同艦が沈んだ七月二四日に同艦の戦没者の遺族と生存者、それらの家族によって厳粛に営まれている。

 

海軍大尉 小灘利春

更新日:2007/10/28