海軍大尉 小灘利春

 

振武隊 伊三六七潜の戦闘

平成17年 5月27日

  

攻撃目標を洋上航行中の敵船団に転換した回天特攻・天武隊の伊三六潜と伊四七潜の両艦は

夫々「戦果」を打電報告した。

潜水艦隊として久しく聴く事が出来なかった大きな戦果を、新戦法によって、出撃して僅かの後に挙げたと言うものであり、

しかも潜水艦自体は攻撃を受ける事もなかった。

第六艦隊はこの成果を高く評価し、拡大継続する方針を決定して、五月初めに伊三六六潜及び伊三六七潜の二隻で

「回天特別攻撃隊振武隊」を編成した。

「潜水艦本来の使い方は、広い洋上での輸送路の破壊である」と主張していた潜水艦長たちも歓迎した。

 

しかしながら伊三六六潜は出撃前日の五月六日、爆装した回天五基を搭載して試験潜航の為光基地の沖合へ出て、

まさに潜航しようとした時、敵B29爆撃機が密かに投下していた磁気機雷に触雷した。

まだ海面上であったので、幸い沈没はしなかったものの、大損傷を被って参加不能となり、回天を光基地に陸揚げして、

修理のため呉工廠に戻った。

 

前日の五月五日に出撃した伊三六七潜が単独で振武隊作戦を実施する事になった。

伊号第三六七潜水艦、排水量一四四〇トンは昭和十九年八月十五日、神戸三菱造船所で竣工、

南風島、ウエーク島への輸送作戦に従事した後、昭和二十年一月一日に横須賀へ帰着、

直ちに呉工廠で回天搭載工事に着手した。

四月末工事終了、五月一日、大津島基地に回航した。

二日、三日と回天を搭載して発射訓練を実施し、終って実用頭部を装着した回天五基を搭載した。

四日は出港して、試験のため沖合で深々度潜航をした。

 

端午の節句の五月五日 〇八三〇、搭乗員と整備員が乗艦し、第六艦隊司令長官醍醐忠重中将の訓示を受けて

一〇〇〇、伊三六七潜は短波マストに結び付けた緋色の大きな鯉幟を五月の青空に翻しながら、

華やかに大津島基地を出撃した。

目指す水域は沖縄とサイパンを結ぶ米軍の補給航路の中間であった。

 

艦長 武富邦夫少佐。

搭乗員は藤田克己中尉(兵科期予備士官、水雷学校、福岡経済専門学校、山口県)

.      小野正明二飛曹(13期甲飛予科練出身下士官、北海道)

.      千葉三郎二飛曹(同、岩手県)

.      岡田  純二飛曹(同、長野県)

.      吉留文夫二飛曹(同、北海道) の五名であった。

 

サイパンから北西約四五〇浬の沖縄を結ぶ線上で、五月十五、十八、十九日と潜航中に水中聴音、

または浮上中に電波逆探知機で船団を探知した。

うち「回天戦用意」の号令が三回かかったが、いずれも距離が遠く、潜望鏡では視認出来なかったので、

回天が発進するには至らず、後も索敵を続ける日々であった。

 

五月二十七日は、日露戦争のおりにロシアの「バルチック」艦隊を日本海で撃滅した「海軍記念日」である。

洋上行動の日数が二十日以上経つと、回天の故障が多発すると言う戦訓があるためか、

前日の二十六日に第六艦隊から帰投命令を受けた。

艦長は搭乗員を発令所に集め、作戦を打ち切り帰途に就くと伝えたが、搭乗員達は「明日は敵に会う様な気がする」と、

口々に一日の猶予を願い出た。

艦長は了承して、五十浬移動して待敵した。

搭乗員は更に身体を水で清めたいと希望して、潜水艦では貴重な真水を洗面器二杯貰い、

狭い艦内の通路で身体を拭った。

潜水艦には浴室もシャワーもない。

翌日未明の〇三三〇、予感が当って遂に敵船団を北方、約四万米の遠距離に発見した。〇四〇〇潜航、

艦長は長時間に亘って接近に努めたが、あまり近寄る事が出来ず、〇七二五「回天戦用意」の号令をかけた。

この時は各回天の整備員が直ちに乗艇して、発動弁の解放、電動縦舵機の起動等発進準備全般を整えた上で、

搭乗員と狭い操縦席の中で入れ代った。

整備員は艇外に出ると下部ハッチを閉め、搭乗員が艇内のハンドルを廻して密閉すると、交通筒への注水が始まる。

ヒタヒタと、聞こえて来る水音は三途の川の流れの音である。 

船団は十数隻の輸送船と護衛の駆逐艦であり、沖縄方面に向かっていた。

〇九〇〇、艦長は「方位角左九〇度。速力十二ノット、距離九〇〇〇米。速力二〇ノットで十四分間、全没進出せよ」と、

前甲板に並んで搭載された藤田中尉の二号艇と二号艇の吉留一飛曹に命令、進出針路を指示した。

藤田中尉が発進直前にコンパス示度を母艦の羅針盤と整合した時、予め整備員がスイッチを入れて起動していた

電動縦舵機の作動が止まっていた。

航走が出来ないので、命令により発進を中止。

吉留艇も縦舵機が同じ故障で作動せず、中止。後甲板の千葉三郎二飛曹の三号艇は〇九一三発進した。

小野正明二飛曹の五号艇も続けて発進して行った。

 

同じく後甲板の四号艇の岡田二飛曹は速力を二〇ノットに調定し、発動桿を力一杯後ろに押した。

しかし、何時もの力強い発動音が聞こえず、高圧酸素の圧力計の針が速く下がりはじめた。

岡田兵曹は艦内の連絡係りに電話で「四号艇冷走」と叫んだ。

なにぶん、訓練の時には使わなかった言葉なので、連絡係りが聞き誤り「熱走」と司令塔に報告した。

「第一バンド外せ」の号令で・回天を艦体に固縛する前部バンドが外され、後部の第二バンドだけで甲板に繋がる状態になった。

岡田兵曹が咄嗟に「四号艇冷走らしい」と、訓練用語にない言い方で電話した。

それで連絡係りが異変に気付き「冷走」と司令塔に伝え、最後のバンドが外される直前に発進中止となった。

そのままでは岡田兵曹は、十分動けないのに洋上に放り出される所であったが、どうにか艦に止まる事が出来た。

 

発進して行った両艇の推進器音は順調に聞こえていたが、やがて遠くに消え、

〇九五一頃に爆発音、数分後に又爆発音を艦内の一同が聴いた。

距離は約二万米であった。

「両艇命中」と判断されたが、艦長は回天の発進後、直ちに深く潜航し、そのまま北方へ退避を続け、

潜望鏡深度まで浮き上がることもなかったので、爆発の状況を視認していない。

伊三六七潜の艦首の発射管室では魚雷を二本の発射管に装填して、発射準備を整え待機していたが、使用されなかった。

潜水艦は同日二一〇〇迄潜航した後に浮上し、二八日より帰途に就いた。

艦長は第六艦隊へ「艦種不詳二隻轟沈」と打電した。

伊三六七潜は、元来が物資輸送用の潜水艦であって、艦体の強度などは爆雷攻撃に耐・孟防御力の点では充分とは言えが、

同艦は振武隊と次の多聞隊の両回天作戦中、爆雷攻撃も、又探索も、受けた事はなかった。

二十日頃に強い台風に遭遇し、甲板上の回天は各部に損傷、浸水する故障が発生していた。

懸命の復旧作業で一応は修復したが、波浪の衝撃によって縦舵機排気弁に浸水があれば、

電動縦舵機停止の原因になった可能性が考えらける。

千葉艇は、発進前に特眼鏡の異常云々の電話交信があったが発進の際は通常ならば艇内へ引込む特眼鏡を、

逆に一杯に上げた儘で発進してゆくのを甲板に残った艇の搭乗員が見た。

特眼鏡の視野に異常があって、発進の直前まで具合を調べていたのか、浮上後直ちに観測を始める意図から

下ろさなかったものか理由は分からない。

小野挺も気蓄器の高圧酸素が漏洩して、残量が減っており、航続力の低下は明らかであった。

艦長は躊躇っていたが、次々と発進不能となって攻撃できる艇が少なくなった為か、敢えて発進させた模様である。

武富艦長は、艦内に戻った先任搭乗員の藤田中尉へ「方位角が九〇度では、回天が突入する時に斜め後方からの

突撃になるので、命中率が下がる事が心配であった」と、苦しかった心中を洩らした。

いかにも、このままの態勢では追いかける形になる。

しかし、回天がやや前方にまで進出し、向きを変えて浮上すれば、後追いではない良い態勢に持ち込んで突入する事が

容易に出来る。

細心、轍密で、用意周到な性格と言われた艦長の感想ではあるが、回天は普通の魚雷とは違う。

人間が乗っているから占位運動が出来るのである。

後甲板から発進した回天に対する艦長の命令は

「目標、敵輸送船団。敵速十二ノット。距離八千米。方位角一二〇度。針路〇〇〇度で速力二〇ノット。

二〇分間潜航して進出した後、浮上観測して突撃せよ」

と言うものであった。

かなり不利な態勢に陥ってしまってからの発進になったのは、前甲板の二艇が発進不能となって後、

後甲板の開店の頭部を目標に向けようとして、潜水艦自身を一八〇度、海中で向きを変えた為であった。

その上で、艦長が改めて観測をやり直してから発進を命じたので、時間が掛かり過ぎて大きく後落してしまった。

回天は電動縦舵機の横に着いた小さなハンドルを搭乗員が指で廻す事で、前周三六〇度、自由に針路を

選択出来るのである。

そのまま回天を発進させて、斜進をとらせれば済む事であった。

小さな回天を旋回させる方がずっと早く、手軽である。

艦長も内地での何度かの発進訓練の際は、潜水艦の向きを変える事なく五艇を逐次発進させていた。

 

各搭乗員にとって人生の最後となる発進をした回天は、二基ともに、殊更に不利な条件を強いられたのである。

特に、酸素量の減少で航続力か減少していた艇にとっては、まことに過酷であった。

伊三六七潜の回天が攻撃した輸送船は戦車揚陸艦LSTであったと言うが、これは十二ノットは出せず、

通常は九ノットの速力で航行する。

之字運動を行っていたかどうかについては、艦長から通知がなかったが、多数の艦が何列もの緊密な編隊を

組んで航行するので、実際として之字運動は実行困難である。

この水域では恐らく船団の各艦は直進していたと思われる。

又LSTは、満載状態では吃水が艦首二・四米、艦尾四・四米、平均三.四米になる。

戦車などの重量物を満載した場合はこの通りになるであろうが、兵員などの軽い積荷を積んでいたら、

艦首が僅か〇.七米という軽荷状態に近い吃水になっていたであろう。

LSTが戦車を積むとは限らず、上陸部隊の兵員輸送にも数多く使われていた。

攻撃したLSTの吃水がかなり浅かった可能性は当然ある。

千葉艇、小野艇は夫々二〇分もの指定時間、二〇ノットで接近した後に浮上して、敵艦へ繰り返し突撃し、

命中するまで、或いは酸素が切れるまで、走り回って奮闘を続けた事と推察される。

成果の確認は、相手船団の報告が発見されていない為、今なお出来ていない。

 

伊三六七潜は六月四日午後、大津島基地に帰り着いて、艦長は分遣隊の本部に連絡に赴いた。

搭乗員は一時上陸したものの潜水艦に戻り、整備員は退艦、同艦は光基地に回航して残った三基の回天を隆に揚げ、

五日呉に帰過した。

回天搭乗員の三人はそのまま呉まで乗って行き、第六艦隊司令部で開かれた報告研究会に出席した。

 

生身の人間が乗る回天を、自分の命令で発進させる事に艦長は航海中常々苦悩していたと言う。

その為か、緊迫した回天発進の場に於いて、予期しない故障が続いたとは言え、慎重を期するあまり、

かえって発進のタイミングを失する重大な結果を招いた。

艦長は病気退艦した。

心痛のため、十二指腸潰瘍を患っていたと言われる。

一方、伊三六七潜軍医長の梶原貞信軍医大尉は熱誠の快男児であった。

振武隊として出撃する直前に操舵手が肺炎に罹って入院し、交替の補充が間に合わなかったが、軍医長は

「自分が操舵当直の勤務に就く」と名乗りを挙げた。

微妙な感覚と熟練を必要とする重要な配置であるが、慶応大学のボート部でオールを漕いでいて、

操舵の経験もある梶原軍医は、艦長の潜航操舵の実技テストを受けて、文句なく合格した。

二時間交代の三直哨戒の操舵手を受け持ち、水上航走中、潜航中とも出撃航海一か月の間、完壁に勤め上げた。

「軍医長兼操舵手」とは稀有な例である。

 

伊三六七潜から発進した回天が護衛駆逐艦「ギリガン」は、五月二十七日に損傷を被っているが、

場所は沖縄本島の北西海面であり、時刻も二二四九と言う夜間であった。

日本海軍の双発陸上攻撃機が夜間雷撃して、発射した降雨魚雷が命中したものである。

ただ魚雷が爆発しなかった為に浸水を食い止める事が出来て、沈没は免れている。

 

海軍大尉 小灘利春

更新日:2007/09/24