海軍大尉 小灘利春
〇六金物試作艇
平成16年 4月13日
○特眼鏡の昇降
故・黒木少佐が回天のハッチの中に立って、一升瓶を抱えた会話中の、有名な写真がある。
ハッチの前の特眼鏡は「一杯に引き込まれている」と誰もが思う。
しかし高さはこのまま、上には伸びない代物である。
回天一型の生産が大幅に遅れたので、大津島基地で訓練開始の翌日に海底へ突入、殉職された黒木少佐は、
遂に正規の回天一型を見る事がなかった。
従ってこの回天は紛れもなく「〇六金物の試作品」であるが、三基あった試作艇は特眼鏡はどれも短く、
しかも旋回するだけで、昇降は出来なかった。
特眼鏡を上げた回天の写真や図面を「試作艇」と解説したものは間違いである。
昭和十九年九月一日に開隊した大津島に、量産型の回天一型が初めて到着したのは九月も半ばを過ぎてからであり、
月末でも僅か六基しかなかった。
多くの出版物がその事実を伏せて「回天三基で訓練を開始した」と記している。
又「二号艇は事故以後、使用しなかった」と記述する書物が多いが、訓練するにも残る二基では数が絶対的に足りない。
試作一号艇は浸水しておらず、損傷もなかったから、訓練に使用せざるを得ない。
調査終了後、黒木少佐が内壁に書かれた貴重な絶筆も写真に撮影した後、上から白ペンキで塗り潰された。
漸く「回天一型」が姿を見せた時「特眼鏡を、ハンドルを廻して上げ下げする操作が一つ、増えるんだなと認識したが、
この長さ一米の特眼鏡(基線長九六〇粍)の昇降出来る方が、やはり観測には格段に好都合であった。
特眼鏡が低い試作艇だけしか見た事のない人が、その先入観に立って回天を云々すれば、的外れになるのは無理もない。
○特眼鏡の倍率
試作各艇は外見上は回天一型と殆ど変わりがないが、何分にも試作品であるから、内部装置には差異があった。
試作一、三号艇の特眼鏡は、構造や外形が若干違うものの量産型と同様、
「五倍と六倍に倍率の切り替えが出来、視野の俯仰が利いたが、二号艇の倍率は約八倍(八.三五倍)に固定されていた。
この事をよく心得て搭乗しないと観測の際に混乱する。
浮上した途端に目の前に島が迫って見え、緊急停止した搭乗員がいた。
試作二号艇では他にも観測の錯誤による事故が何度かあった。
○試作艇の前部
試作艇はどれも前半分にある気蓄器、燃料タンク、潤滑油タンク等が省略されていた。
隔壁もなく、その場所に箱型の海水タンクがあるだけ。
従って操縦席の前は空っぽで暗い洞穴の感じである。
気蓄器の代わりに何十キロもある鉄塊(インゴット)等が並べてあった。
溶接されていない様であったが、訓練頭部の駆水が作動した時、若しも上から落ちてくると搭乗員は無事では済まない。
試作艇で深度駆水した事故が早々にあって、この時は幸い大した怪我はなかったものの、重量物の固縛を厳重にする様
反省材料になった。スパナひとつだって痛い。
最初の事故、黒木・樋口艇遭難の時は海底に突入した試作艇の尾部に潜水夫がロープを廻して作業艇で牽引し
水平に浮上させた。
○速力、射程
試作艇は気蓄器の数が半分なので、二空(純粋酸素)調圧に対応する速力は量産型と同じであるが、
射程(航走距離)は当然、半分であった。
試作艇の性能表は次の通り。
回天一型量産型の射程は大体この倍の数値と見て艮い。
当時水雷部では軍機兵器九三魚雷の性能秘匿の為、速力は一〇ノット減、射程は半分にして表示する慣習があったが
下記数値は補正済み。調圧に対応する速力はこの通りで合って居る。
調圧 kg/u |
速力 kt |
射程 千m |
6.0 |
11.0 |
40.0 |
7.0 | 12.3 | |
8.0 |
13.3 |
|
9.0 |
14.3 |
|
10.0 |
15.2 |
|
12.0 |
16.8 |
28.0 |
14.0 |
18.4 |
25.0 |
16.0 |
19.3 |
22.6 |
18.0 |
21.5 |
|
20.0 |
22.3 |
18.8 |
24.0 |
25.0 |
|
29.0 |
28.0 |
|
32.6 |
30.0 |
12.0 |
調圧の最下限は一・五キロとされ、速力三ノット。
途中冷走になる度合いが急増する為、これより下げられない様になっていた。
即ち回天一型の最低速力は3ノット、最高速力は30ノットである。
○図面
我々が大津島着任後、始めて目にした図面は「〇六金物」の表題で、操縦席の特眼鏡の前、下部ハッチの上の
空間全部が薄く塗り潰されていて「脱出装置」の字だけ書込んで、構造は記入がなかった。
全長一四・五米、全重量八トン、全没排水量八一トン(浮力一〇〇Kg)。
炸薬量は「一トン六〇〇」と言う表現で記載してあった。
頭部炸薬の起爆装置は魚雷同様の爆発尖、電気管、それに機雷と同じ原理で頭部の先端がつぶれると
電流が発生する装置の三段構えになっていた。
前部にも二空(純粋酸素)一室(通常空気)の高圧気蓄器など一式が記入してあって、完備品の図面である。
設計は以前に完了していて、試作基は前部気蓄器を省略して、実験の為に細目の変更を加えて
三基、製作されたものであろう。
試作基相互は外見上特眼鏡の形以外は相違がないが、量産型の回天一型に比べると特眼鏡のほか
司令塔の形状、整流板などが多少違っている。
○名称、番号
試作艇は〇六金物実験的、試作基、練習的などと呼ばれ、符号はL-1、L-2で表示されていた。
回天一型は単に一号艇、二号艇と称し、記号は1、2であった。
○海水タンクと最初の海底突入事故
試作艇は操縦席前の隔壁がないが、ここに回天一型同様、海水タンクがあった。
この位置が、大体重心に当る為、艇全体の浮力調整に使われたが、前後釣合の調整には役立たない。
試作艇は酸素気蓄器が後部だけにある為、航走するにつれて後部ばかりが軽くなって浮き上がる。
釣合調整の為海水バラストのタンクが三個、後部に設置されていたが、意識してかなり早目に注水しないと、
プロペラも舵も海面上に出て、航走状態が悪くなり、潜入が著しく困難になると同時に、潜入前にどんどん左に曲がって行く。
注水の重要性が回天一型よりも遥かに高かった。
これが試作艇の最大の欠点である。
数少ない回天の水上航走状態の写真の内、真横から見た写真があるが横舵は深度零に調定すると上げ舵一杯を取る
構造になっているから艇尾は沈む筈であるのに、この艇は前に傾いて艇尾が浮き上り、縦舵を見せている。
その特眼鏡の特異な形状から見て試作艇であり、矢張海水タンクの注水を行っていない状態であろう。
黒木・樋口艇の遭難は「荒天が原因」と主張する刊行物が多い。
公式には「横舵系統の一時的変調」とされている。
しかし、当時の試作艇を知る搭乗員から見れば「後部浮力の過大による潜入時の大傾斜が原因である」と推定されるのである。
十九年九月六日夕刻、徳山湾内直線五千米コースの航走訓練に出て一七四〇発動、一八〇〇反転し
一八一〇頃速力二〇ノットで潜入、その時大きく俯角がかかったままで左転を続け、
一八一二やっと潜入した途端に海底に突入した。
その状況を、故・樋口少佐が残された航跡図と報告から明らかに読み取る事が出来る。
艇が海底の砂泥に突入した時は衝撃を全く感じない。
深度と速力を色々と操作し、計器を見続けた様子が同乗者の記録に残されているが、一気に海底突入して後の、
既に動けなくなってからの努力と推察される。
即ち、本事故の真実を伝えているのは故・樋口 孝少佐の描かれた航跡図である。
大傾斜して潜入する長さ約十五米の艇が、水深十五米の海底に突っ込む事は容易に起こり得る。
事故発生は干潮時であった。
黒木少佐が水深十八米と記録されたのは二三時の満潮時に観測されたものと推測される。
当日の潮高差は約三・四米であった。
黒木少佐殉職時の手帳に同日、周防灘に画した発射場を出て馬島一周の訓練を終えた故・仁科少佐から
「波浪大なるとき同様、二十ノット浅深度潜航中、俯角大となり十三米迄突込んだ由報告あり」と記されているが、
仁科艇も同じような潜入状況であったと思われる。
同日は午前中穏やかな好天気であったが、午後急速に暗雲が拡がり、満天の密雲となった。
行方不明艇の捜索に基地の全短艇が出動した時、防波堤の外は小さな三角波が立っていた。
しかし一時的な風雨であって、荒天と言う程ではない。
海岸近くを我々が内火艇で調査した際、懐中電灯で照らすと水底の岩がはっきりと見えた。
小雨はあったが、海面は既に滑らかであった。
これは当日の私自身の体験であり、気象庁の記銀にも残っている事実である。
徳山湾に大時化があったのは、本州中部を縦断、北上した台風十三号の影響を受けた九月十七日頃であった。
更新日:2007/09/24