海軍大尉 小灘利春

 

回天搭乗員の遺書などについて

 

○遺書、遺筆

回天の搭乗員たちは立派な遺書や短歌、漢詩、遺筆などをそれぞれ残しております。

これらが作成の段階で検閲されたとか、指導されたとかの説を聞きますが、根本的な認識不足があるようです。

搭乗員たちが出撃を前にして個々の思いを人に伝え、この世に遺す手段はこれら遺書などしかありません。

それぞれが全精神を集中して考えぬいた挙げくのものであり、精一杯の自己表現でもあります。

「地に爪痕を残すもの」といいますが、誰でも自分が生きたあかしをこの地上に残したい気持ちがあります。

自分は何のために生命を捧げるか、何を望むか、自分の死生観は何かなど、一番の思いを懸命に凝縮した末の結晶が、

一見簡単にも見える遺書、遺詠なのです。

 

これに対して指導する資格は何人にもなく、ましてや検閲する権利など誰にもあろう筈がありません。

おそらく自身が人生の最後にしたためたものが個々の尊厳を示す最高のものでしょう。

表現するに足る自己というものを、士官も下士官もそれぞれが持っていたということです。

従って、身近かにいる分隊士などに意見を求めたことが或いはあったかも知れませんが、

上の者が指導したとの話は聞いたことがありません。

 

出撃者たちは前夜、机に向かって遅くまで遺書を書いていました。

「もう遅いから明日にしたらどうだ」とは言えないのです。

翌朝早く壮行式があって、そのまま潜水艦に乗り込んで還らぬ出撃をする身なのですから。

父母をはじめ何人かに宛てて遺書をしたためますが、さらに潜水艦のなかでも発進の前まで詳細な経過、

兵器の状態、心境を日記風に丹念に書き記した人が少なくはありません。

 

回天隊の特徴的なことは、出撃する士官から基地に残る下士官へ、また下士官から士官へと親密な内容の

遺書や遺詠のやりとりがあったことでしょう。

お互いが同じ任務の仲間であり、また訓練の都合で途中から別々の基地に分かれることもありますから。

私も、先に出撃する同期生は勿論、年若い出撃搭乗員たちからも沢山の短冊や色紙を貰っております。

はからずも生き残った私は、それらが永くこの世に残るようにと願い、靖国神社に奉納しました。

 

日記はつけなくても、遺書、遺詠は書かずにはおれませんでした。

特攻財団(特攻隊戦没者慰霊平和祈念協会)が陸海軍の特攻戦没者の残した短歌を集めた「特攻隊遺詠集」を

このほど刊行しましたが、回天搭乗員は殆どが遺詠を残し、しかも一人当たりの作品の数が多いことが、

編集の段階で特に印象的でした。

回天関係ばかりが揃って遺詠が多いため、ほかと均衡がとれるように数を制限して遺詠集が刊行されました。

 

○日記

隊員の日記についても「軍隊で日記を書くなど許されぬことであった」と言う人が世間にはいますが、

これまた事実の逆です。

海軍では日記を書くことを奨励はしても制限することはありませんでした。

回天の戦没者たちが記した日記もいろいろ残されており、今では貴重な資料です。

私の場合は支給されていた自由日記帳「自啓録」と、自分の心境を描いた一枚の絵が遺書のようなものになりました。

日記を荷物の間に隠してコッソリと自宅に送ったという話がありますが、事実とすればよほど具合の悪いことを

書いたと自分が思っての行為でしょう。

まともなことではありません。

 

○手紙の検閲

下士官兵が出す私信は規則によりどの部隊でも責任者の検閲を受けました。

予科練出身の下士官搭乗員が手紙を出す場合、大津島ではかなりの期間、私の検閲印がなければ投函

できませんでした。

搭乗員分隊の分隊長を私がつとめていたからですが、実際は私が私信を見たことは一度もありません。

すべて分隊士の小林富三雄中尉が文面をチェックして、私から預かった三文判を押していました。

検閲する目的はあくまで機密の漏洩防止であり、気付かずに秘密事項を書いてしまうこと防ぐためですから、

私が見るまでもありません。

 (小林分隊士はのちに轟隊伊号第361 潜水艦の先任回天搭乗員として出撃、戦死しました)

士官の場合は手紙の検閲などありません。

 

○最後の帰郷

搭乗員たちはいよいよ出撃する前、家族に最後の別れを告げるために故郷に帰り普通二、三泊します。

御遺族がたの追憶には、突然の帰郷に驚きながらも搭乗員の普段と変わらぬ明るい振る舞いに安堵する情景が

一様に語られます。

最後の帰郷であるのに「これから死にます」などの話は誰もしてはいないのです。

出撃者は皆、表面は平然としていました。

 

私の場合、大津島から八丈島へ出撃したのですが、徳山から横須賀までは列車便で進出しましたので、

最後の帰郷として途中の呉で下車し自宅に一泊しました。

母と妹だけがいて、心静かに談笑して童謡のレコ−ドを聴きながら、叫びたいほどの心中を抑え、

今生の別れを胸のなかでひそかに告げていました。

「これが最後です」などとは到底言えるものではありません。

言えば早くから悲しませるだけですから。

自分の戦死はあとから判ればよいことです。

思いもいずれ伝わることでしょう。

誰しも同じ心境であったようです。

 

また、「秘密の任務だから話すな」と上長が注意したような事実も、その必要もなかった筈です。

私自身も「帰隊の期日に遅れないように」と念を押しても「喋るな」などとは言ったことも、

言われたこともありません。

回天という兵器とその作戦が高度の機密性を前提としており、事前に漏れたら自分たちの働きを阻害することは

皆が充分承知し、自制していました。

しかし、親兄弟にも別れの言葉を言わなかったことは、秘密を守るということよりも上記のように

親兄弟を悲しませるに忍びなかった、強い愛情の現れというべきでしょう。

回天搭乗員のひとりひとりが、特攻志願のときに始まって自らの生命を絶つそのときまで、冷静に判断し、

立派に行動していたことを後の世の人々に御理解いただきたいと思います。

 

海軍大尉 小灘利春

更新日:2008/08/17