甲飛第十三期殉國之碑保存顕彰会

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会報「總員起こし」  第36号/平成20年

岡田 純

奈良空−回天振武隊(伊367)−回天多聞隊(伊367)

「回天選抜奇談 続編3」

 

前号までは回天に来るまでにあった事を書いて来たが、今号を以て最終刊になる可能性もあるので

回天に乗り始めてからイ号367潜で二十年五月五日に出撃するまでのあれこれを書いてゆくことにしよう。

 

回天に乗って

大津島は当時の回天隊では唯一の出撃基地であったから、出撃予定者の訓練最優先で一般搭乗員に割り当てられる

艇はごく僅かである。従ってこの枠に入るのが大変だが、士官優先ということはなかったからチャンスはあった。

搭乗は予告もなく、ある日の夕方、突然本部入口の掲示板に「明日の予定」として発表される。

同乗訓練の時は操縦者に挨拶に行くだけで、後は貴方任せで気楽なものだが、初めての単独訓練が掲示された時は

大変であった。その理由は次の如くである。

 

同乗訓練

回天は一人乗りであるから、とにかく狭い。

操縦者より先に入って後ろ向きに座るのだが、ひときわ大きな電動縦舵機と、深度計・主空・繰空の圧力計、

バッテリー等の間に身を縮めて入ると、背中に主空ボンベの先端が、頭には信管の安全解脱装置が当たる。

それで背を丸めてツリムタンクの上に腰を下ろすと、身動きの出来ない状態になる。

この姿勢で操縦者の動作、処置方法を頭に叩き込み、単独訓練時に備えるのであるが、飛行機と違って

連動操縦装置など一切ないので、全くの看取り稽古であった。

そして私も含めて三月頃までの同乗経験者は、一回の同乗経験で次の単独訓練に入ったので、まさに真剣勝負

そのものである。

なお、搭乗回数も多くなると、上官、同期を同乗させる事も多くなるが、事故の発生は同時に二人の戦力を失う

事になるので、無茶な操作はしなかった。

また、出撃搭乗員になってから三回ほど他の人の操縦する艇に同乗したが、なまじっか自分の技備に自信(自惚れ?)

を持っているだけに、気持ちの良いものではなかった。

 

初めての単独訓練

前述の如く、本部掲示板に名前がかかれたら直ちに次の行動に移る。

@調整場へ行って使用艇の整備士担当下士官に挨拶し、艇固  有の癖を聞く。

A搭乗経験者の応援を得て、海図に予定航路を記入し、潜水・露頂・進路・変針点及び各時点の所要時間を決定する。

以上の準備を整えてから寝についても、頭の中は繰法の反復で寝付かれない夜を過ごす事になる。

当日、発射一時間前に板倉指揮官及び迫躡艇指揮官に申告する。

(これが、なかなかの緊張もので、とちったり、声が小さいと活を入れられる)

これをパスして調整場へ行くと“的”は準備完了して艇付の整備員たちが、今日の新米搭乗員は誰だろう、と

好奇心に溢れた顔で待っている。

ここで舐められたら後々に響くので、表面落ち着き払って筒内に入り、発進準備に取り掛かるが、

緊張のため手に汗が濠む。

この手順を項目別に記せば十八項目にも及ぶので省略するが、熟練してくれば五分ぐらいでも、初めての搭乗では

十分ぐらい要したのではなかろうか。

この間は整備士がハッチを覗いているので安心ではあるが、次の搭乗割にも影響してくるので、

一瞬の気も抜けない十分間であった。

大津島の初単独訓練は徳山湾内の北(陸側)に向けて片道3キロの往復で、行って帰ってくるだけであるが、

水深が16メートル前後と浅い。

また回帰点付近が、開隊して訓練開始初日に黒木、樋口両大尉同乗の3号艇が海底突入して殉職死した地点に

当たるので、緊張感はいやが上にも高まった。

 

さて発進準備が終わると、ハッチを閉めてクレーンで水面に下ろされ、横抱艇に抱えられて発進地点に。

目標の蛇島に向けて停止してからハッチをコンコンと叩いて合図が来る。

さっそく特眼鏡を上げて前後左右の安全と追躡艇を確認し、進路を決めて調庄16節、調深5メートルに設定し、

「コンコン」と発進用意宜しの合図を返す。

いよいよ発進である。

身体を捻り背後を向いて両手で発動桿を力一杯に押す。数秒おいて「ゴオーー」という音と共に各部からの震動が

伝わり、間もなく潜入する

(これは熱走した事を示し、冷走したら音も振動もなく、また潜入しない)

直ちに秒時計を押し、傾斜計と深度計を見る。

ダウン15度、深度7メートルぐらいを頂点にして除々に水平に戻り5メートルに定針する。

先ずは発射成功である。

潜航時間は五分ぐらいであるが、海図を見たり、各種計器や砂時計を何度も見たりで全く落ち着かない。

やっと予定時間がきて速度6節、深度0にし、特眼鏡を上げて覗いていたが、次第に明るくなったと思うと

眼前がパッと開いて浮上する。安心する瞬間である。

直ちに予定地点を観測して海図上のそれと照合する。

熟練してきたら直ちに出来るが、なにしろ初めてのことだから何度も見直すので時間がかかる。

と云って浮上時間が長いと研究会が恐ろしいし、第二回の搭乗が遠のくので、ままよと調圧、調深をセットして

再び潜入する。

変針点に来ているので電動縦舵機を一八〇度セットして回頭終了と同時に浮上し、先ほどと同じ作業をして潜入。

さらにもう一度浮上潜入して、最後の浮上で訓練は終了する。

ところが、この最後の浮上が曲者。距離の測定を誤ると海岸に達着するか逆に遥か手前に浮上し、

長い水上航走を余儀なくされる羽目となる。

初の単独訓練者がある時には、兵舎前の台地に士官を含めた搭乗員が多数集まって終始注視しており、

回天が停止すると冷やかし混じりの手旗信号を送ってくる。

冷や汗の連続ではあるが、反面晴れがましい一日であった。

 

訓練余話

回天は九三式魚雷を原動力としているが、兵器として採用されてから日も浅く、機械故障や操縦失敗による

大事故小事故が常につきまとっていた。

私自身は幸いにも搭乗を干されるような事故には遭っていないが、これはという体験はあるので以下触れてみる。

 

1)島への激突寸前回避

単独搭乗回数も重なって出撃要員にも入り、やや慢心気味になってきた春の波穏やかな或る日、

目標艦への反復攻撃も終了して、いざ帰らんと浮上したとき、前方に機帆船を発見した。

帰りがけの駄賃には絶好の目標とばかり躊躇なく斜進をかけて突入した。

一分足らずで船底を通過するはずであるので、そろそろ浮上するか、と思ったとたん、後方に爆発音一発。

無意識の中に取り舵一杯、調庄6節、探調0にして特眼鏡に飛びついて見ると、右50メートルに崖が見え、

的は左に回頭を続けて魚雷艇が接近してきている。

馬島にぶっつけて一巻の終わりになるところであった。

襲撃に夢中になって見張りを怠ったための典型的な例であるが、当日はベ夕凪で雷跡がよく見えたことと

追躡艇が高速の魚雷艇であったことが幸いした。

よくぞ追いかけて発音弾を投下してくれたものだ。

(出撃メンバーが決まると、隊員の訓練には隊長が迫躡艇指揮官をする事が多いので、

或いは藤田中尉だったかも知れない)

 

)野島にのし上げる

367潜での出撃が決定し、最後の仕上げに入った四月上旬、藤田隊長の搭乗的に小生が同乗することになった。

航行艦襲撃ではなく湾外の野島廻りのコースで、碇泊艦襲撃の時は重要な訓練コースであったが、

その時は単独訓練の三回目あたりから使われて出撃搭乗員の訓練コースではなかった。

察するに、隊長の出撃艇のテストを兼ねた搭乗割であったと思う。

また小生の同乗は、もう少し勉強せい、という事だったかも知れない。

二人とも慣れたコースであり、特別な訓練項目もなく、かつ海上も穏やかだったので気楽に乗艇した。

発動して順調に航走。予定地点で浮上し、短時間の観測後、再び潜入して秒時計でタイムを測り、左へ変針した。

島の南端と灯台の間を通過するので、私なら再び浮上して観測後でないと不安で変針潜入は出来ない。

さすがは隊長と思いながらも何か不安を感じ、上半身を前にかがめたとたんガンと衝撃がきて、

隊長は「あっ」と叫ぶと右目を手で押さえた。

特眼鏡の接眼部に激突したのである。

同時に「ガガ」という轟音がして、的は20度ぐらいのアップで停止した。

身動き出来ない隊長に代わって後ろ向きになり、特眼鏡を覗くと目の前に灯台が見え、

岩にのし上がっているのが判った。

直ちに発動桿を引いて機械を停止し、状況を隊長に伝える。

隊長の傷口を見ると、瞼の上が3センチぐらいパックサと割れて出血している。

ハンカチで押さえて止血してもらう間にも、的はずるずると後退し、水中へ落ち込んだ。

深度計は20メートルを指している。

追躡艇が付いてきているはずなので応急ブロー弁を開いて頭部駆水をする。

(訓練時の回天は爆薬の代わりに水を入れてある)

ブローが利いて仰角45度ぐらいで水面に頭部が出た。

これで発見される、と二人ともホッとし、変針点の観測データを検討し始めたところで再び沈みはじめ、

元の水深20メートルに沈座した。

考えてみれば、激突したとき頭部に破孔が生じて空気が洩出し、再び浸水したのだ。さらに二回ほどブロー

してみたが、同じ事の繰り返し。

発見された気配もないし空気の節約も考えて、しばらく待つことにした。

二、三十分経ってから、付近にスクリュー音が聞こえた。

それっとブローするとシャシャシャと音が頭上に近づいたが、やれやれと思う間もなくまたもや沈座。

これで最後とブロー弁を開きっぱなしで頭を出したら、何やらチャカチャカlと金属の打ち合う音がする。

今度こそと安心していると再び沈み始め、突然ぐんぐんと深度が増して50メートルに落ち込んできた。

「しまった。岩礁からずり落ちた」と判断し、発動桿を押し調圧を最大にして冷走させた。

(主空を消費すれば回天に浮力が生じる)

これが利いたのか的は上昇し始め、間もなく水面に出た。

直ちに身を振って特眼鏡で前方を見ると、すでに魚雷艇に曳航されており、板倉指揮官が仁王立ちになって

こちらを睨んでいる。

傍らの同班者から「負傷者があれば特眼鏡を振れ」と送信してきたので左右に振ると、間もなく曳航速度が上がった。

追躡艇に指揮官は乗っていなかったはずなので、事故発生の報に駆けつけて来たわけ。

有り難いと思うものの、夜のことを思うと気が重い。

換気のため上部安全弁を全開したり、空気清浄剤を撒いたり、一度開けてみたかった非常食料を開けたりで時を過ごし、

湾内に入ったのは発進後四時間ほども経過してからだった。

調整場の岸壁でクレーンに吊り上げられ、合図でハッチを開け始めたらシューと空気が噴出し、

筒内にガス様のものが充満して耳が痛い。

隊長に次いでハッチから半身を出したとたん、びっくり仰天。

何と基地の全員かと思うほどの人々が、岸壁にぎっしり並んでいる。

隊長が押さえていたハンカチを左手に持ち替え、指揮官に敬礼して報告を始めたが

「報告は後でよろしい。すぐ病室へ行け」と指示された。病室へ同行すると井上軍医長が待っており、

すぐ縫合手術にかかったが、麻酔なしで少々痛そうであった。

隊長は、出撃を二十日後ぐらいに控えて心配されたが、幸い眼球に異常なく、抜糸も早くて、

その後の潜水艦発進訓練も順調に完了することが出来た。

 

整備の人々

回天の原動力となった九三式魚雷は世界唯一の酸素魚雷である。

だが、その爆発の危険度は極めて高く、また機構が複雑なため、一回使用したら、その整備に四、五日を必要とされた。

しかし戦局の逼迫に伴う搭乗員の急速錬成のため、一基の回天で三日に二回、訓練出来るよう整備することが、

至上命令として下されていた。

従って整備科の苦労は大変なもので、終日調整場の灯が消えることがなかった。

また潜水艦の出撃時には、必ず艇付きとして乗艦するが、生命の保証はない。

事実、潜水艦での出撃整備員で艦と運命を共にした人々は三十五名に達する。(潜水艦八隻)

それでも出撃希望者が後を絶たなかったと言われており、まことに有り難いことであった。

岡田  純

更新日:2008/04/20