甲飛第十三期殉國之碑保存顕彰会

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伊三六七潜会「航跡 第4号・回天特集号」/平成 7年

岡田 純

奈良空−回天振武隊(伊367)−回天多聞隊(伊367)

「 小野・千葉両少尉の思い出」

 

十九年九月一日付で回天搭乗員となったのは、土浦空出身一〇〇名と奈良空出身二五〇名であった。

土浦組一〇〇名も、正確に云えば、約五〇名は東北・北海道出身で、当初から土浦空に入隊、残りの約五〇名は

関東・東京・山梨出身で、当初は三重空に入隊、二〇年三月に土浦に転隊した面々で、

必ずしも渾然一体ではなかった。

そのためかどうか真相は明らかでないが、光基地開隊と同時に、東京・山梨組五〇名が光に移り、我々奈良空出身

一〇〇名が大津島に移って行き、この時(十二月三日)から小野・千葉・吉留との付き合いが始まった。 

二ケ月半も前に大津島に先着していた土浦組は、訓練が先行していたので搭乗も早く、十二月三十日には、

早くも同期のトップを切って金剛隊員として森二飛曹(北海道)、三枝二飛曹(山梨)が出撃、戦死していた。

従って、我々の訓練は、彼等の乗艇に同乗することから始まったのであるが、

北海道出身者のやや粗っぽいが開けっ放しな気風と、東北出身者の重厚で親切な気風のお陰で、

大津島の下士官居住区は思いのほか早く融け込んで行った。

 

二月に入って小生の単独訓練も始まり、三月には待望の特攻術章(八重桜マーク)も付与された後で、

次のように出撃メンバーが決定した。

藤田中尉  (予備士官三期  山口県)

小野二飛曹(甲十三期土浦空 北海道)

千葉二飛曹(甲十三期土浦空 岩手県)

吉留二飛曹(甲十三期土浦空 北海道)

岡田二飛曹(甲十三期奈良空 長野県)

 

我々が五月五日出撃するまでに、同期生は十六名が出撃し、十三名が戦死、三名が艇の故障で生還していた。

全員土浦空出身者であるから、小野・千葉・吉留は、土浦空一○○名の中で十七〜十九番目の出撃で、

小生は奈良空最初の出撃であった。

メンバーが決定するまでは、個人的に話をすることは殆んどなかったが、決定後は乗艇しない時は追躡に廻ったりしては

お互いに訓練の成果を講評し合い、急速に仲間意識が高まって行った。

 

小野君は快活且つ能弁な有言実行派であった。

搭乗訓練では航行艦襲撃の時は勿論、島廻りの航法訓練の時も、帰りの駄賃として行きづりの小船や、

時には自分の追躡艇にすら襲撃運動をして、監視員を慌てさせる茶目っ気たっぷりのところがあった。

お互いに訓練の反省を語った時に、「俺は目標艦に突入する時に起爆装置のハンドルを廻すことと、電気信管のレバーを

握って激突予定秒時に押すことだけ実行している」と語ったことがあるが、これには全く反省させられた。

即ち、小生はこの操作を忘れることがあったからである。

命中しても信管が作動しなかったら何にもならない。

肝に命ずる一言であった。

 

千葉君は、もの静かな中に闘志を秘めた曲型的な東北人タイプであるが、時にポッンと冗談を飛ばす愉快な一面を持っていた。

訓練中に際立った思い出ではないが、五月二十七日運命の日、小生が冷走で艦長指示で機械停止した後に、

電話のレシーバーが聞き取れたが、その中に特眼鏡異常云々のやりとりがあったことを覚えている。

深度十八米の海中は澄んでいて、斜め前の三号艇は良く見える。

時間の経過は覚えていないがレシーバーに「用意テー」の声が聞こえて数秒、後部第二バンドが外れ、特眼鏡を一杯に上げて

スーと出て行った三号艇の後ろ姿は死ぬまで忘れない神々しいものであった。

左横の五号艇(小野)を見るとバンドのみ残り、その姿はなかった。

電話では五号艇とのやり取りは入らず、順調に発進したものと思う。

 

「〇七一五」回天戦用意で互いに別れを告げ、乗艇してから二時間−〇九一〇」二勇士は征った。

合掌

 

後列(左から) 小野一飛曹、岡田一飛曹、吉留一飛曹

前列(左から) 小林中尉、藤田中尉、千葉一飛曹  

 

岡田  純

更新日:2008/01/06