甲飛第十三期殉國之碑保存顕彰会
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全国回天会「まるろくだより」第49号/平成18年
久保 吉輝
奈良空−回天 (光)−轟隊(伊363)−回天多聞隊(伊363)
「 轟隊・伊三六三潜の戦闘 搭乗員の実録」
まるろくだより四八号掲載の標記記事について発言し得る搭乗員としては私以外に居なくなってきたので、
実録を呈して諸賢の記録の補正をしていただきたい。
五月二八日、光基地を出撃した伊三六三着の搭乗ペアーは、三月初旬、三谷大尉(大阪・府立北野中出身)から小生に、
「五月頃俺が隊長で行く、君も大阪やろ(久保 大阪 府立市岡中出身)大阪もんの名誉の為に一緒に出撃しようやないか」
と言われ、感激して受けた。
その時決まった仲間ペアーは、隊長三谷大尉、副隊長和田稔少尉、下士官搭乗員は土空・西沢(小林)、奈良空・片岡 信、
小生であった。
翌日以降搭乗訓練は頻繁になったが、ある日、隊長から「俺は出撃できなくなった」と言われ、話が違うと詰め寄ったが、
司令官から「水雷科出身の指導官が居なくなるので、貴様は出るなと止められた。すまん」との事で数日後、
後任は上山中尉と発表された。
1ヶ月もしない内に片岡兵曹は、衝突事故のため入院、その後任に石橋兵曹が発令され、和田少尉の日記にチームの雰囲気に
影響があるのでは、と書かれている。
後任隊長の上山中尉は十九年末の二九日、坪根少尉を同乗、尾島回りの訓練中荒天波浪の為か進路を誤り漂流、
総短艇用意 が令せられ、深夜発見され内火艇で曳航中、息苦しくなりハッチ啓開脱出し、二人は救助されたものの、
的は浸水のため沈没し始めた為ロープ切断、回天は沈没。
翌朝より回天探索のためワイヤーを曳いて掃海、夕刻発見、潜水夫を入れて引上げたが、作業員となった我々は波浪に
濡れ鼠となり冷えきった体を風呂にはいったものの、数十人は発熱、二十年の正月は寝正月となってしまった。
嫌な苦い経験であった。
@六月五日、初めて回天戦用意がかかった。
六月四日早朝「敵発見、回天戦・魚雷戦用意」で発令所に集合、
「タービン音にディーゼル音も混じる。感二」
正に機動部隊だ。
続いて「感三、左四十度、近付く!」の聴音室よりの声。
艦長より「搭乗員乗艇、発進用意急げ!」に交通嵩の入り口で塚田兵曹よりサイダーを受け取り、乗艇。
発進準備をしてくれた小島兵曹は「成功を祈ります」と言って下部ハッチを閉鎖した。
敵速、敵針、方位角等のデータIを艦長より受け、発動桿をカー杯押すと機関は快調に回転し始めた。
この時、発動したのは私だけで、ほかの四名には発動の命は無かった。
念の為、気圧を数回上下させて調子を見た。
「発進」の号令待ちの間に特眼鏡を一八〇度回転させ推進器の回転を確認、その向こうに艦橋も見えていた。
結局荒天で作戦中止「搭乗員艦内に戻れ」となったが、この日特別休暇が最後の別れとなった祖母が亡くなり、
私には身代りとなってくれたものと思っている。
A六月十五日、敵輸送船団と遭遇
一九三〇頃浮上、非番の乗員と共にチンケースの煙草盆を囲み一服していると「敵発見灯火らしさもの多数!」の声に
急ぎ煙草盆を片付ける。
艦長は艦橋に上がって観測している様だ。
見張から「提灯行列の様だ。五〇パイは居る」と大声で報告。
かなり距離はある様で好射点に占位すべく、一戦速で水上航走約一時間、潜航後「魚雷戦用意」発令、
「回天戦用意」は無かったが、各自身支度し発令所に集り「そんなにおるんなら回天を出してくれ、夜間訓練もしている」と
艦長に申し入れたが、『輸送船位に君達を死なせたくない、もっと大物の時お願いすると言って、2本しかない魚雷を発射した。
B搭乗員は急いで身支度を整え、七生報国の鉢巻きを締め交通筒を昇って回天に乗り込んだ。
この項全体が六月四日の情況である。
実態は、前項のように「回天戦用意」も「搭乗員乗艇」もなかった。
私達は居住区で潜水艦のみ体験する魚雷発射時の射出高圧空気の吸引(高圧空気で魚雷発射をするが、
そのままだとこの大きな気泡が潜艦艦の所在を暴露するため、魚雷が管を出る寸前にこの食う葉を館内に吸引する)、
この為艦内気圧が一瞬高くなり鼓膜が圧迫される。
C敵は輸送船団であり〜〜反撃を受けたら回天を
回天をと言うのなら「搭乗員乗艇」が発令されている筈だが誰も乗艇していない。
魚雷発射前に聞こえていた観測距離から命中は十分以内と、ストップウオッチを押して聞き耳を立てていたが、
予定時間をオーバーし「駄目らしいな」と話している内に爆発音一発。
途端に「バンザイ!」が挙がる。木原艦長の初雷撃の一発が命中、狙っていない敵船かも知れないが初手柄。
敵も、安心して提灯行列をしていたら突然やられたので猛然と執拗な反撃を加えてきた。
D回天操縦席に座って………
「回天戦用意」も「搭乗員乗艇」もなく乗艇する訳がない。
この時は全搭乗員は司令塔付近で待機していた。
E上山中尉は交通筒から一旦艦内に降りて………
簡単に交通筒を通って回天に出入りする事は困難。
下部ハッチ・交通筒の水密、交通筒の注排水等厳重な注意が必要なのだ。
F魚雷命中の後、攻撃も捜索も………
敵はそんなに甘いものではない。
魚雷爆発音を聞いた後三〇分もしない内に二隻の駆逐艦により交叉爆雷攻撃を約三時間に亘り受けた。
一度に水深を変えて三発ずつ、交互に投下、水中では音の伝播が良いのかかなり遠距離でもやけに大きく聞える。
安全潜航深度八〇米の艦では無音潜航、児童懸吊等総員挙げて全機能を駆使しての操艦に必死になっている。
直上通過の撤駆艦のディーゼル音、推進器音、爆雷投射音に頭を抱え込む有様、百数十発迄爆雷音を数える頃には
バルブの継目からの漏水、蓄電池からのガス等応急処置の応緩、資材物資の移動に全員クタクタになった頃には、
敵もノーカードになったか、制圧できたと思ったのか次第に攻撃の手は緩み、一応危機脱出したようだ。
しかし、電探マストに敵機の反応があり、充電装気と換気の為の浮上航走は出来ない。
しかし幸運にもシュノーケル装置が増設されていたので、この吸排気筒により半潜航でディーゼル機関を使用航走・発電を
同時に行い、難局を乗り切った。
翌日は昼間は自動懸吊、夜間シュノーケル使用の半潜航航走で危機を乗り切ったが、一週間後には伊三六潜が同様の危機に遭遇、
久家少尉と柳谷一飛曹の活躍によリ伊三六潜は無事帰還。
G二九日呉に入港して搭乗員連は艦を降りた。
二八日、平生で回天を陸揚げし、二九日呉に帰着。前年九月一特基附として軍港風景は夢、幻か寥々たる有様に−瞬戸惑う。
半年余の間の戦勢の傾斜を改めて確認させられる。
工廠南端の潜水艦桟橋、伊三六六潜に隣接着岸、早速点検修理が開始され乗組員は地獄の縁からの帰還に、
足が地に着かない様子。
だが死ねなかった搭乗員はここでは無用の長物、お呼びがない。
オエライサンは六艦隊への戦況報告、研究会、工廠と打合せ等々で多忙だ。
乗組員の行う艦橋からの突入訓練を一緒に数回行う。
見張り配置の五名が急速潜航の令で垂直ラッタルを滑り降りる。
下手をすればハッチで脛をうったり、発令所の中間ハッチに尻をぶっつけたり、肘を打ったりで唸っているところへ次の者が
頭上に落下してくる。
急速潜航がもたつけば艦が、突入訓練でぼやぼやすれば自分の生命さえ失う事となる。
数日後、出撃時に呉高女挺身隊の生徒から貰った血書の手紙と血染めの日の丸の礼に工廠へ。
彼女達の意気込みに気おされ中学生に戻った様な気分で何をしゃべったか再訪を約して帰艦。
翌日、和田少尉の荷物と称して酒保物品を持ち出して、寄宿舎で再会。毛糸等で作った人形数体をもらった。
それから数日後外泊中の夜中。呉は空襲に晒され、衣服を整え帰艦と宿を出ようとすると、爆弾と銃撃に腰を抜かした
宿の女中を発見、同宿の三人で担ぎ桟橋へ急ぐ途中の防空壕へ女中を放り込み、衛門に辿り着くと、
鎮守府も海兵団も軍需部も炎上していた。
イ三六三潜は当直員の手で沈座、乗組員は全員無事だった。
その数日後搭乗員・整備員に帰隊命令があり、重い足を陸行で光基地へ帰り着いた。
H艦長の言葉通り、小さな輸送船が相手では有り難くない。
しかし攻撃目標は輸送船であった筈………
当時、洋上攻撃になった時は、低速の目標とか弱武装の船団とすれば、攻撃が容易になると考えられ目標を拡大した筈だが
機動部隊攻撃を停止されていたわけではない。
とすれば菅昌艦長の意気もまた壮とすべきで、否定する根拠はなく、ましてや多聞隊ではソ連の参戦を受けて日本海へ配備変更
となった位で当然ウラジオから出てくるものは戦闘艦艇だからこれを攻撃する事となり艦長のお考えが不当であるとはいえない。
以上、三六三潜と行動を共にし、未亡人ではないが今だ生存を続けて居る回天搭乗員の実戦記を呈し戦況のー部を告白する。
昭和20年 5月28日 轟隊(伊363潜)出撃記念写真(前列左端)
昭和20年 5月28日 轟隊(伊363潜)出撃記念写真(左端)
更新日:2007/10/13