甲飛第十三期殉國之碑保存顕彰会
関西甲飛十三期会 公認ホームページ
会報「總員起こし」 第35号/平成19年
久保 吉輝
奈良空−回天 (光)−轟隊(伊363)−回天多聞隊(伊363)
「天地の恵みは広大無辺C 回天基地隊うらばなしA」
先月初めに土空組百名は大津島基地に移動していったので、奈良空組二百五十人はカッターや座学の毎日であった。
十一月一日に夏冬の七つ釦を返納し、中古の五つ釦が支給され、同日をもって二等飛行兵曹に任官することになった。
下旬の朝食後に奈良組全員は衣嚢を担いで練兵場に集合、大発で沖に停泊している貨客船芙蓉丸に乗船、
やがて錨を揚げて新設されたと聞いていた光基地に向かって航行をはじめた。
先月、艦務実習で通った航路を西に、瀬戸の島々を縫って、夕刻に光基地の沖合いに投錨、大発等で基地の岸壁より上陸した。
百五十米余り四方の練兵場の一角に集合し、基地隊長の宮田大尉や分隊長等の歓迎挨拶と注意事項があり、
全員衣嚢を担いでほぼ新築が終わった海岸寄りの木の香も薫る兵舎に八人ずつ入った。
先ず室内に残された飽屑や木ッぱ等の大掃除が最初の作業であった。
二米弱間口の引違い戸を開けて室内に入ると左右に物入れ棚を挟んで二段ずつ二列の取りつけ寝台(扉のない押入れ)に
畳が敷いてある。
部屋の中央は八畳程の板の間になっている。
兎に角それぞれの棚に居を構えて衣嚢私物の整理を始めた。蚤のQ基地とは大違いである。
翌日も朝の朝礼・点呼の他は特別に課業もなく掃除と整理をして隊内の偵察に出かける。
我々が入った同じような兵舎が北側に七・八棟あり奥の三棟は建物の内外、室内も青鼠色に塗装され、工員風の若者が
引越し作業をしている。
此処は光工廠の養成工員の寄宿舎で、西側の大きな二階建ての本部庁舎は、彼等の学校・教室であったとのことで、
今は玄関に着剣した番兵が立っている。
どうも工員達を追い出して基地にした様である。
東西十数キロ続く毛利侯ご自慢の松並木と虹ケ浜の景勝地を裏山の土石等、で埋め立てた処に海軍工廠を建設したもので、
東端の一部を光基地に転用したのである。
戦後は西半分を新日鉄に、東半分を武田薬品工業に払い下げられ、今日に至っており、基地跡地は周南港として埋め立てや
岸壁整備で当時の面影は全く無くなっている。
戦後、昭和二十年八月十四日の米軍機の工廠爆撃により多数の犠牲者と共に回天光基地の戦没者を弔う慰霊碑が、
旧光工廠(現在は、新日鉄と武田薬品)の正門前のロータリー緑地に建立され、毎年八月中旬に光市主催で行はれていた。
しかし、大津島、平生、大神の三基地に現存する回天独自の慰霊碑が、第二特攻戦隊の本部であった光に無いのを憂いた、
光甲飛会(会長十一期、十四期〜十六期生の努力で、皮肉にも当地方には十三期は一人も居らないのに)
平成八年十月十日に、光基地の象徴であった回天発着場の天井走行クレーンの跡地に建立され、
毎年八月に光「回天」の会が、光市主催の戦没者追悼式後の同日に、慰霊祭が行はれている。
休業・外出第一号
転勤移動の前日頃より右目の中がゴロゴロする、どうも目バチコのようだ。
分隊士に受診したい旨申し出て、本部庁舎の軍医長の診察を受けたが、眼科治療は出来ないと言われ、
隣に工廠の病院があるのに何故か、隊外の町医者に行けとの事で、衛生兵同伴で外出する事になり、
目の具合の悪いのも忘れ、久し振りに裟婆の空気が吸えるのを楽しみに数日を工廠の門前町・島田の町を往復した。
行き帰りに、当直将校に申告する度に「基地の事は一切他言無用、真っ直ぐ帰ってこい」と言われて
「光嵐部隊」と書かれた木の看板の掛かった隊門を通った。
初めて自分の配置の名称が解った。
後は数日寝て暮らし、日課・作業も無く、心身共に良い休養になった。
急造の基地で設備が完備していなかったお蔭でもある。
元の住人の工廠工員が出て行った北側の12兵舎へ宿替えとなった。
造りは同じだが部屋の内外は塗装され、中央の板の間には八人分の机と椅子が自習用に置かれている。
こんな部屋が上下に八部屋ある棟が中庭を挟んで三棟が一階のみ便所と蒸気で沸かす大きな風呂が廊下でつながり、
中々快適な所である。
数日後、百名が大津島に移動して、代わりに同数程の土浦組がやってきた。
此処でも同室の一人が「室長」 である以外に班長も教員もおらず、数人の少尉が分隊士として紹介された。
搭乗訓練始まる 十二月中旬から下士官搭乗員も訓練が開始された。しかし全て大津島から移動してきた土空組ばかりで、
奈良空組は内火艇や〇四による追躡(ついしょう、走行する回天の追跡、見張り)作業ばかりで、
外套の上から雨具を着て寒風の中波しぶきを被っての寒行である。
座礁やエンスト(回天は一度停止すると再発動できない)などの事故があったら、サア大変、海中に飛び込み事故艇に
舫いロープを引っ掛けたり、離礁や曳航の作業のため、文字通り濡れ鼠である。
時には寒いので躊躇していると、意地の悪い艇指揮の士官は「総員飛び込め」と命令する。
かじかんだ手で海中での作業をしながら「下手糞メ」と腹の中で怒鳴りながら寒さに震えていた。
そんな毎日を過ごしている内に、誰言うとなく、「同じ日に着任したのに、奈良空だけが何故後回しなんだ」
「奈良空にも優秀なものがいる筈だのに」と言うボヤキが大きくなってきた。
どうも、吊り床とカッターの所為かも知れないとも言い出した。
どちらにもアホも賢子もいる、そんな不満の声が聞こえたのか、どうか、午前中の座学で教えられた回天の主機構である
九三魚雷の各構造部品名称についてのテストが、工員食堂を転用した教室で行はれた。
九三魚雷はご存知のように、高圧ボンベの酸素と石油を圧力釜に似た燃焼室に霧状にして点火し、周囲にある海水を
ポンプで吹き込み、高圧水蒸気を発生、二気筒のレシプロエンジンを回転し、
二重反転歯車により同軸の正・逆スクリュウにより魚雷自身は回転することなく、水中を直進する。
言い換えれば直径七二センチの円筒に入った蒸気機関である。
ところが、その名称は明治時代つけた水雷科独特の部品も用具も全て漢語の音読みで、クイズみたいな名称が付けられている。
例えば、シリンダー‥気筒は解るが、クランク‥曲肱・きょくこう、ピストン‥吸鍔・きゅうがく、ポンプ‥咄筒・そっとう、
スパナー‥開螺器・かいらき、木ねじ回し‥割開螺器・わりかいらき、等で、まるで判じ物である。
その結果、奈良空組にもアホばかりではなく、出来るのもいる事が解り、年が明けてから同乗する者や単独訓練する者が出て来た。
それでも小生などは、まだまだ他人様の様に感じ、追躡艇で寒風に晒されていた。
奈良空組 大量寝正月
暮れも押し詰まった二十九日に坪根少尉同乗の上山中尉の的(回天を部内で「的」と呼んでいた)が尾島回りコースの訓練中に
荒天波浪の為か、進路を誤り漂流、追躡していた内火艇が舫をかけて曳航していたところ、酸欠状態に我慢できず
ハッチを開けて飛び出した。
二人は救助されたが、的に海水流入、沈没し始めた為に追躡艇は引き込まれるのを恐れ、ロープを切断、的は沈没した。
翌日早朝より、全ての舟艇を動員する「総短艇用意」で掃海作業、運悪くカッターに当った小生ら奈良空組は、
寒中に終日波浪をかぶりながらワイヤーを引いて濡れ鼠となって掃海、昼食も漕ぎながら握り飯を震えながらかぶっていた。
夕刻、なんの成果も無く基地に帰り、早速入浴したが、数十人が風邪で二十年の新年は寝正月の破目になった。
当の本人達は搭乗止メになったのは当然だが、当時も現在に至るも「すまなんだ」の二言もない。
しかし、この二人とは運命のいたずらか、その後も係わりが続くことになる。
作業員整列とギンバイ
搭乗割のない奈良空組は、課業の無い時間には部屋で雑談している時などに、「手明き総員整列」や「作業員整列」等の
号令が掛かる。
たまには出なければと、トラックの荷台に十人ほど乗って隊外へ、三キロ程揺られて、工廠西端の製鋼部岸壁
(回天基地には小型でも船舶を横付けする岸壁がない)で送られてくる物資を積み替え、基地隊へ運搬する作業が
日課のような時期もあった。
ある時など、荷物を積み込み荷台で駄弁りながらコモ包みを見ると、紅色の布が見えている。
引っ張ってみるとタオルである。
誰言うと無くギンバイすることに一決。
ところがドンドン引っ張っても終りが無い。
一枚ずつカットしていない、続いている。今更元に戻せない、サアー困った、
鋏も刃物もないが絞れば知恵も出るもので、タオルを荷台の角に押し当てて靴のかがとで、コンコン叩き切った。
二人ほどで体に巻きつけ、何とか悪事が露見せず、冷や汗をかきながら事なきを得た。
後日一枚ずつ配給があり、一件落着、タオルの不自由はしなかった。
走りでは、負けません。
年末から新年にかけて、新たに基地に着任する者の出迎えに、四キロ余りの国鉄光駅に五・六人トラックで走る。
衣嚢や手荷物などは荷台に積むと、トラックは輸送指揮の士官を乗せて、さっさと基地に向け走り出す。
残された転勤者は不満顔である。これからが歓迎行事が始まる。出迎えの我々は前後に分かれて、総員基地まで駈足である。
九州・川棚からの同期たちは、ブツブツ言いながらも何とか、落伍者もなく、寒中に汗だくながら隊門までたどり付いた。
手荒い歓迎に驚いたであろう。
ある時、ピカピカの少尉(おそらく予備学四期)のお出迎えである。
何時ものようにトランク等の荷物を積んだが、少尉様も乗り始めた。
誰言うとなく「少尉さんは走れないのかなあ」呟いていると、指揮していた分隊士は、ムッとしながら下車させ、
総員基地まで駈足を命じ、俺も走ると言い出した。
「さすが江田島仕込だ」とおべんちゃら言って、共に走り出した。
一種軍装に短剣をつった正装であり、距離も解らないままの駈足である。
寒中ながら汗ダクで、首のボタン・フックもはだけ、フーフー云っている。
こちらは事業服の軽装であり、少々気の毒に思いながら列の後尾を走る。
途中で短剣を拾ったが、指揮官に渡さず、そっと本人に整列時に渡した。
早々にどつかれては、余りにも気の毒と思った。
半月ほどして、走りでは予科練出の下士官には歯が立たない事を、士官連中は思い知らされる一件が起こるのである。
練兵場を半日連続駈足 ある日の朝食後「一分隊総員練兵場に集合」のロ言下が掛かり、手空きの者百人余りが号令台の前に
整列すると、分隊長、甲板士官が「最近貴様らはたるんでいる、気合を入れるため、昼食時まで駈足をせよ」との命令、
二列縦隊で練兵場を走りだした。
我々も少々マンネリになっているとは感じていたが、どうも転勤時の駈足の恨みもあるのであろう、などと話しながらグルグル走る。
十数人の分隊士や士官連中も後尾を走っていたが、一時間余り経つと一人減り二人減りと、本部庁舎に消えていった。
奈良空入隊以来毎朝の駈足で鍛えていたとはご存知無かったのだろう。
百回余り走った頃には、士官連中は一人も居らなくなった。
十一時過ぎた頃に分隊長が出てきて「もう、このへんで止め」と言ったが、こちらも意地になっている。
「言われたように昼まで走ろう」と、食事ラッパが鳴るまで走り通した。
「ザマー見ろ」と、奈良空の意地を見せて溜飲を下げた。
この一件以来、士官連中は駈足については何も言わなくなった。
初めての外出(行軍)
ある日、光基地に着任して以来婆婆の空気を満喫する事になった。
朝食後、三種軍装に脚絆を巻き、握り飯の雑嚢と水筒を襷掛けにして、練兵場に整列、「これから行軍を開始する」と言われて
、二列縦隊で隊門を出る。
工廠横の道路を西に、長い長い工廠の塀が終り、島田川を渡ると立派な松並木のすぐ左側は周防灘の海が見渡せる。
この綺麗な砂浜は「虹ケ浜」で、近くの光駅は以前は虹ケ浜であり、更に進むと笠戸島が大きく視界に入って来る。
更に西に歩くと島はだんだん近ずき、大きな工場が並んでいる。日立造船の笠戸工場である。
歩いている町も人の動きも多く、漁港の下松に到着した。
昼前に行軍もここで終り、整列すると指揮官は「ここで解散する、夕食時までに各個で帰隊せよ、帰隊時間に遅れるな」と
注意して現地解散した。
行軍と言うよりも引率外出であった。
久し振りの裟婆に出してもらったが、見ず知らずの港町にはり出された海軍さんはウロウロ、古びた喫茶店で
無糖の紅茶で握り飯を食べ、水筒に入れてきた酒を回し飲み、町を探索している内に、玉突き屋を発見、
四・五人で遊び、射的屋でワイワイやっていると憲兵がやって来た。
聞かれるままに「光基地からきた」と言うと「昼間でもあり、余り騒がぬように願います」と立ち去った。
巡羅なら解るが、何でこんな港町に憲兵がいるんや、など話しながら国鉄の下松駅から光駅まで、駅前からバスで
基地近くまで無事に帰隊した。三カ月後、この疑問が解る事件が起こった。
更新日:2007/10/13