甲飛第十三期殉國之碑保存顕彰会

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会報「總員起こし」  第33号/平成17年

久保 吉輝

奈良空−回天 (光)−轟隊(伊363)−回天多聞隊(伊363)

「天地の恵みは広大無辺B  回天基地隊うらばなし@」

 

「総員起こし」31・32号にて第一回出撃以来呉に帰投するまでの経緯を寄稿したが、第二次の出撃記事までに

回天基地における裏話を古い記憶をたどってお話したいと思います。

資料、メモ等は戦後処分し、六十年前のことでもあり、プライバシーの観点から登場人物の一部は変名としました。

 

帝国海軍始まって以来の兵隊

昭和十九年九月に呉に着任した奈良空六百人(操・偵ほぼ同数)は、二百五十人が土浦空百人(全員偵察)と共に回天に、

三百五十人は蚊龍に配属されたようだ。

小生ら回天組は土空百人と一緒にされ、大正二年築の太い柱の木造兵舎に入れられたのがケチのつきはじめである。

大竹に移転するまでは潜水学校で、練兵場の一角には佐久間艇長以下全員が殉職した六号潜水艇が神社として祀られていた。

当時は、呉潜水艦基地隊として出撃前後の乗組員休養施設で、留守番の兵隊以外は人影はない。

乗組員たちはラッパに支配されない下宿か、紅灯の館で命の洗濯をしているのであろう。

甲板掃除と食事以外は課業らしきものもなく、一日ブラブラしていたが、就寝となってサー大変、吊床だ。

ウロウロ、ガヤガヤ、やっとネッチング(吊床格納所)から下ろしたが、背の低い我々では飛んでも跳ねてもフックに掛からない。

食卓に上り、土空の連中(予科練入隊は三重空だった)に教えてもらい、どうにか吊ったものの、乗る要領がわからない。

あちこちでブラブラ・ドスン、やっとよじ登ったが、寝心地が誠に悪い。

一夜明けて総員起こし、吊床の括り方が分からない、またも土空のお世話になり、どうにかロープで縛ってはみたものの

芋虫のようでピンとしない。

遂に練兵場に整列させられ吊床担いで駈足、走っている内に縛り方が悪いので、なかの毛布がはみ出てくる。

なんとも不細工な光景をご披露してしまった。

 

十日ほどして転勤とのことで衣嚢を担いで整列、境川桟橋で待っているうちに、陸戦隊姿の奈良空入隊時の班長青山一菅と

再会したが、これが今生の別れとなってしまった。(32号に記載)

大発艇に乗せられた我々は、比島作戦のため呉軍港に集結した艦船群の間を縦断して、平 清盛が厳島神社参詣の近道として

掘らせた音戸の瀬戸を通過して、オオサカに行くと聞き喜んだが、着いたところが大迫(オオサコ)だった。

倉橋島の東端の砂浜であった。

此処は第一特別基地隊司令部と特潜本部のあるP基地の向かいであり、特四内火艇(水陸両用戦車)の訓練基地であったが、

サイパン逆上陸作戦中止で、空き家同然のQ基地である。

木造二階建ての畳敷きで、やっと吊床から開放されたと喜んだが、その夜から猛烈な蚤の襲撃に会い、

連夜の蚤とりで総員寝不足が続いた。

その上、不思議な事に定員分隊以外に教員、下士官が一人もいない。

兵学校出の士官が分隊長、分隊士である。

この組織は回天基地に移動してからも搭乗員分隊には教員も班長も全くいないまま復員まで続いた。

どうやら兵学校と同じ方式のようである。

分隊長より回天搭乗員である事を申し渡され、基地が建設されるまで此処で回天の母体である九三式魚雷の構造座学と

海に慣れる訓練が始まった。

大和と武蔵が降ろしていったカッターが日課だった。

吊床から開放されたが毎日のカッターで尻の皮は剥ける手に豆は出来る、傷口が化膿して樺にひっつく、

バッターがないのがせめてもの救いであった。

奈良空組は擢立ても満足に出来ない、要領が悪いし息も合わない、前後の擢が絡み合う、擢を流して海に飛び込んでとりに行く、

散々の醜態を披露する。土空の連中はクスクス笑っていた。

「貴様らは兵長になって、吊床は釣れん、カッターは漕げん、帝国海軍始まって以来の兵隊だ」と罵声を浴びせられた。

然し、習うより慣れよとか、一ケ月もしないうちに土空と競争出来るようになった。

奈良空での九ケ月は何んだったのか、手旗と発光信号以外は遂に役に立たなかった。

それにしても、奈良からの輸送指揮官・伊藤安熊大尉(奈良空分隊長)が一言云っていてくれたら、こんなに恥をかかずに

済んだのにと、ボヤいたのは私一人ではなかったと思った。

どうも、この一件が我々の運命を決定した様だ。

即ち、回天基地に移動してからも、大津島でも光でも訓練を開始したのは全て土浦組で、奈良組は三ヶ月ほど後にされ、

出撃したのも十二月には土浦の森、三枝の二人が金剛隊で先頭を切った。

奈良組では大津島から五月五日に岡田、二十八日に小生が出撃したのがトップだった。

また、差別された故に戦死・殉職が、土浦組は百人中、三十三名に対し、奈良組は二百五十人中、七名であった。

どうやら海の兵隊らしくなった十月中旬、内海航路の貨客船芙蓉丸で艦務実習が実施された。

入出航時の舫作業、見張り、航海中は測距儀による距離測定、速力判定、艦橋当番、信号旗掲揚、手旗の応答、水深測定等

交替で色々やったが、宮島の厳島神社、大三島の大山祇神社で国宝の鎧兜の見学、女木島・鬼の洞窟、高松の栗林公園など

二泊三日の修学旅行の様な想い出がかすかに残っている。

十一月一日七つ釦を返納し、一種軍装で二等飛行兵曹に任官、十日後蚤の島に別れを告げ光回天基地に海路転勤する

事になった。

 

 

久保 吉輝

更新日:2007/10/13