甲飛第十三期殉國之碑保存顕彰会

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平成16年 4月11日

甲飛十三期殉國之碑 第 三十一回慰霊例祭

祭典委員長 祭文

 

祭典委員長 岡田  純

本日茲に第三十一回殉國之碑慰霊祭を執り行うに当り、過ぎし日の追憶の一端を述べさせて頂きます。

 

憶えば、吾等甲飛十三期生は昭和十九年末期以降の特攻作戦要員として、その青春と生命を捧げて来たのであります。

命を捧げし者、即ち碑面に刻まれし一千四名、兄等は今 此の友苑に天下っているのでしょうか。

暫し私の追憶の言の葉をお聞き下さい。

不肖私は、回天特別攻撃隊員振武隊及び多聞隊の一員として、二回の出撃機会を与えられ乍ら、不覚にも生還し、

以来今日まで亡き戦友達に精神的な負い目を抱きつつ、同期の慰霊と回天特攻の語り部としての使命ありと

心に刻みつけて参りました。

幸いにも本日其の機会を与えられたと信じ、共に出撃した此の碑面に其の名を刻した千葉、小野両少尉の発進、戦死に

至るまでの実情を申し述べ、語り部としての使命の一端を果たしたいと思います。

昭和二十年五月五日、回天五基を搭載したイ号三六七潜水艦は「神潮と区別攻撃隊振武隊」と命名され、

山口県徳山市沖の大津島基地を出撃した。前甲板に一号艇・藤田中尉、二号艇・吉留文夫一飛曹(土空)、

後甲板に三号艇・千葉三郎一飛曹(土空)、四号艇・岡田 純一飛曹(奈良空)、五号艇・小野正明一飛曹(土空)

が搭載されていた。

出撃してより配備点なる沖縄〜サイパン間の敵補給路にて会敵するまでの二十日間、その間回天戦用意三回ありたりも、

聴音のみにて敵影見えず、発進機会なく、遂に二十六日、六艦隊司令部より帰投命令下る。

これ、潜水艦の長時間潜航継続により行動期間二十日を過ぎれば、回天の故障多発の戦訓ありたる為なり。

同夜艦長よりその旨を告げられた我々五名は、明日は五月二十七日の海軍記念日なる故、良き事有るべしと

一日の猶予を願い出たところ、艦長これを諒として待敵位置を五〇浬移動せしむ。

その夜虫が知らせたか、我々同期四名は、隣室の機関室より蒸留水を貰い受け、二十日振りに身を清めたるを思い起こす。

果たせるかな、二十七日未明沖縄に向かう敵輸送船団を発見す。

以下、同艦機関科電気担当の兵頭上飛曹が、戦後発表せる当時の日記を述べる。

「五月二十七日 〇三三〇敵船団発見、総員配置に就け、好機遂に到来す。〇四〇〇急速潜航、〇七一五回天戦用意、

〇九一〇全回天発進せんとするも一・二・四号艇不調発進不能。小野・千葉両勇士、遂に敵船団に突入、

艦種不詳二隻を轟沈せしめ、大任を全うする。二十七日 二一〇〇浮上航走充電、五月二十八日 〇四三〇潜航、

一八三〇浮上、艦は帰途に就く」と、

此の日記にある如く、回天戦用意にて乗艇してより発進するまで二時間、その間、好位置への接敵運動も効なく、

機械発動寸前の敵状は次の如し、「目標敵輸送船団、敵速十二ノット、距離八千、方位角右百二十度、針路〇〇度にて

二十ノット、二十分潜航後浮上、攻撃せよ」であった。

此の状況のもと、冷走により発進不能となり、令により機械を停止した私は、受話器を通じて聞こえる三、五号艇と司令塔との

交信を聞くのみであったが、特に三号艇・千葉が特眼鏡の不具合について交信しているのが聞き取れた。

直ちに吾は特眼鏡を上げ、以後斜め前方の三号艇のみを注視し続けた。

午前九時の西太平洋十八米の海中は明るい。

突然受話器の中で「用意テー」の大声が耳を聾する。

数秒後三号艇の後部バンドが音を立てて外れ、急速にスクリューの回転を増した。

千葉の三号艇は特眼鏡を上げたまま視界から消えていった。

瞬時瞑目の後、左側の小野はと見れば、彼の五号艇もその姿なし。

ああ、吾のみ残りしかと愕然とするも、年の為、特眼鏡を百八十度旋回して前甲板を見るや、二号艇の残留を確認す。

ああ、空しく帰るは吾のみに非ずと知った時の不思議な安堵感、筆舌に尽くし難し。

千葉・小野発進して四十分後、爆発音一、更に五分後爆発音一を艇内にて明瞭に聞く。

二万米以上の遠方にて千葉・小野の両勇士は、一屯六百の炸薬により己が愛艇と共に玉と砕けた。

時に五月二十七日午前九時四十分と四十五分、命中音なりや、自爆音なりや、永遠の謎。

あの時から五十九年もの永い年月が経ちました。

若くして散った千葉・小野の分まで働けと天が命じるのでしょうか、死に損ないの三人はまだ生きています。

だが既に八十を超えた今、何れ遠くない日に彼岸の参る事でしょう。

願わくば在天の英霊諸兄よ、遅ればせながら参ずる我らを、旗下に加えられんことを願うと共に、

兄等の眠り永久に安かれと念じ、追憶の言葉を終わります。

 

朗読された遺書

更新日:2007/11/04