故地探訪  海軍経理学校

 

勝鬨橋 西詰

東京都中央区

  

海軍経理学校之碑                               品川校の門標

碑文(表)

明治七年、海軍会計舎が芝山内天神谷に設けられたが後、幾変遷を経て明治四十年にそれが海軍経理

学校となった。その間明治二十一年校舎は築地に移されたが、その敷地は松平定信邸の浴恩園の跡に当

たった。明治時代の付近には海軍の施設が多く、その一帯は海軍発祥の地とも称せられている。校舎はさ

らに幾度か移改築を経て昭和七年、この西側築地の一角に移築されたが、太平洋戦争中就学人員急増の

ため、品川ほか地方三ヶ所に校舎を増設した。戦後の海軍解体に伴い昭和二十年九月、同校は約七十年

の歴史を閉じた。その間の出身者は万余をかぞえ輝かしい功績を残したが、戦後もわが国復興の中核とな

って活躍した。戦後三十年を機にここにその栄誉と同校の跡を記念してこの碑をたてる。

 

碑文(裏)

海軍経理学校 校歌   作詞 片岡 覚太郎

ゆるぎなき 御代のすがたのうつすてふ  東京湾頭波よする

築地の岸に聳えたつ われ等が母校

 

星うつり 人はかはれど古し庭 昔をかたり五十年  光栄ある歴史とこしえに我等をてらす

ああなつかしき われ等が母校

 

母校の光栄はわれ等が誇り この誇りすてず進みゆくこそ

われ等が担う 永遠の使命ぞ

 

築地における海軍経理学校の最初の校舎敷地が、松平定信邸の浴恩園の跡に当たり、かつて生徒クラス

会を浴恩会と称したいきさつにちなんで、戦後は海軍経理学校同窓会を浴恩会と称することとしたが、この

碑はその浴恩会が建立した。

 

東郷神社

東京都渋谷区

  

海軍経理学校正門の敷石

碑文

御水舎の前の敷石は 海軍経理学校正門の敷石として使用されたものであります

 

靖国神社

東京都千代田区

海軍経理学校 正門礎石

碑文

明治七年十月 芝山内天神谷に設けられた海軍会計学舎は幾度かその名称を変え明治四十年に海軍経

理学校となった

この間校舎も数度位置を変えて 明治二十一年に築地の松平楽翁公邸の浴恩園跡に移り 更に昭和七年

同じ築地の隅田川畔に移築された

昭和二十年九月 七十一年間の歴史を閉じるまでの同校出身者は一萬名を超え 海軍主計科の基幹要員

として海軍戦力の一翼を担い輝かしい功績を挙げた

その間諸戦役事変に際会して国に殉じた者も数多く 又軍務を離れても各界各方面で活躍し我が国の興隆

発展に多大の貢献をしている

 

 

 

  

海軍経理学校 揚艇柱(ダビット)部品

説明文

海軍経理学校(品川)の校庭北端の岸壁、隅田川の入江に面する揚艇場に屹立した揚艇柱(ダビット)の

部品である。

海軍各学校の猛訓育に耐えた学生、生徒、練習生にとって最高の困苦のひとつに短艇(カッター)橈漕訓練

があった。

掌のまめはつぶれ、尻の皮がすりむけ、こみ上げてくるにがい胃液をのみくだしながら、烈風寒波にも流汗

淋し滴、重い櫂(オール)を漕ぎに漕いだ共通の思い出は、これらの部品に凝集されている。

戦後放置されていた揚艇柱の荒廃腐朽を惜しんだ主計科短期現役第十期の有志が相謀り、部品の払下げ

を受け保全していたが、奉納したものである。

昭和六十年五月十八日  浴恩会

 

海軍三校

更新日:2006/10/20