血染の鉢巻

勝山 淳海軍少佐

 

海兵73期同期生、回天隊同僚

峯 眞佐雄元海軍中尉の回想

勝山少佐は色白で真面目な男で、いつも「自分は水戸っぽだ」と言っていた。海軍兵学校

を卒業後、一緒に柱島泊地から戦艦「大和」に乗船し、訓練しながらシンガポールの先の

リンガ泊地まで行った。リンガ泊地から勝山少佐は巡洋艦「能代」に、自分は空母「瑞鶴」

に配属された。

勝山少佐は大津島で通信隊の担当をしていた。呉へ出かけた時に呉第一高女の女学生

血書で「日の丸」を書いた鉢巻と写真を、大津島の海兵同期全員に貰ってきてくれた。

         

後列右:勝山中尉、前列左:峯中尉                          出撃前の勝山中尉

 

呉第一高女生の回想より

学徒動員の思い出

第二次世界大戦の戦況は日毎に厳しくなり緊張の毎日でしたが、とうとう女学校四年(昭和19年

6月5日:当時16歳)初夏の風が快い朝、学徒動員で第一線に立つことになりました。まず三年生

と四年生が、呉海軍工廠に動員がかかり、私のクラスは水雷部の操舵機工場へ配属されました。

学業をなげうち御国のために奉仕するんだと、私たちは誇りと自尊心をもって張切っておりました。

(中略)

あれは、たしか11月のはじめだったと思います。五人の学徒がY工場長に呼ばれ、何事かとおそ

るおそる行くと、「君らには、これからマルロクの仕事をしてもらう」と言われました。

マルロクの仕事、それは秘密の仕事でした。仕事の内容はあの人間魚雷の操舵機の調整です。

(中略)

ある日の午後、戦闘帽に黒っぽい服、瞳の奥が妙に澄んで何かを思いつめたような青年士官が

マルロクの仕事場に入ってきました。つかつかと指導員のところへ行って操舵機をいとおしむよう

にまさぐりながら、二言三言会話をかわして、そばにいる学徒にも行員にも目もくれずさっさと出て

いかれました。特攻隊員の一人だったのです。きっと自分と運命をともにする操舵機について確

かめたいことがあったのでしょう。

私は、ふと仕事の手をおいて窓辺にかけよりガラス越しに、さっきの青年士官を追いました。一

分でも時を惜しむように足速に去っていかれる後ろ姿に、死を賭して何かをなしとげようとする異

常なまでに強い気迫が感じられ、早く日本の勝利を早く戦争が終わりますようにと、まるで自分の

兄を戦場に送り出すような気持で武運を祈りながら見送りました。

工場の角に姿が見えなくなった時、私の頬をひとすじの熱い涙が伝わったことに気づく者は誰も

いませんでした。調整した操舵機が事故なくまともに敵艦に命中したら、今去りゆかれた搭乗員

は絶対に助かりません。敵艦もろとも散り果てるだけです。もし途中で何らかの故障がおきた時

は、引き金を引いて自爆する以外はありません。一度命を受けて特攻隊員となったからには、

諸々の思いを捨てて、その責任を果すことで日本の勝利を確信して、そして軍神となるのです。

(中略)

マルロクの仕事にも大分なれたころ、五人の中のだれの発案だったのか、ある案が示されたの

です。みんな賛成して次の日曜日にTさんの家に集まってそのことを実行しました。そのある案と

は、本当に純粋な乙女の願いとして、回天の突撃が成功しますようにと血染めの鉢巻を作ること

でした。物資の統制下のこととて新しい布はなく、私は母に昔の着物の袖裏の白いもみの布をも

らい、それで丁寧に鉢巻を縫いました。鉢巻の中心に日の丸を血で染めました。自分で自分の

小指を剃刀で切って、したたり出た血で丸く布を染めて日の丸にしたのです。

自分の血で染めた鉢巻は、自分が調整した操舵機を操縦して出撃する搭乗員にしめてもらう

ように指導員を通じて送りました。思いがけない学徒の行動に、指導員も感無量のようでした。

(中略)

血染の鉢巻

 

平成7年4月15日、呉第一県女三十五回生、もと回天の仕事に携わった学徒動員の乙女たち

15名(い組1名、に組14名)は「回天」供養の旅に出ました。山口県徳山市沖にある大津島

回天記念館をたずねたのです。

島に着くと、とても静かで言い知れない緊張感を覚えました。まず記念館そばの「回天」と彫られ

た石碑の前に集合しました。代表のTさんから今日ここに15名が訪れた事の報告がありました。

そして「海ゆかば水漬く屍・・・」の歌を歌いました。51年間一度も口にしたことのないこの歌、そ

れでもすぅーと何の抵抗もなく歌声になりました。

つづいてTさんは凛とした声で「敬礼」と・・・一瞬びっくりしながらも自然に手が上がり、錨の鉢巻

をしめて朝に夕にした敬礼を忘れてはいませんでした。心から御冥福をお祈りし、みんなの頬に

は熱い涙がとめどなく流れました。

大津島訓練基地 回天試射場跡

 

あれから半世紀、波の音は穏やかにあの出来事を包み込んで、よせては返していました。私の

調整した操舵機をそなえた「回天」もここから発射されたのだろうか、そして行方は・・・等と、次か

ら次へと思いはめぐり尽きることはありません。何時か再び御冥福をお祈りしに、この島を訪ねた

いとそんな思いを秘めて島をあとにしました。

 

後日談 56年目の写真

平成13年11月、「回天」多聞隊で散華した勝山 淳海軍少佐のご令弟が、たまたま購入された

書籍に呉第一県女生の一人が書かれた手記が掲載されていた。そのなかに女高生たちが回天

隊員に送った「血染の鉢巻」の記載があり、ご令弟は故人と海兵同期生で回天隊でも同僚だった

峯眞佐雄:元海軍中尉に連絡。峯宅に保管されていた「血染の鉢巻」の写真を元女高生に送付

したところ、この鉢巻を作成したうちのお一人であったことが判明した。

そして後日送られてきた写真には、56年前に「血染の鉢巻」を作成した六名の姿が・・・。

回天隊員に「血染の鉢巻」を送った広島県立呉第一高女の動員学徒たち

 

戦後半世紀以上を経過して、鉢巻の製作者である女高生の一人と、鉢巻を受け取った英霊のご

令弟、そして配られた鉢巻の所有者である元回天隊員とが、初めて互いの存在を確認しあうこと

となった。

 

大津島 回天訓練基地跡

山口県徳山市

旧女子挺身隊グループの集い/回天を偲ぶ会設立樹

 

血染の鉢巻    勝山  淳

更新日:2010/08/03