醍醐忠重

海軍中将、侯爵

略歴

明治24年10月15日 東京都麹町区出身

明治45年 7月17日 海軍兵学校卒業(40期)

明治45年 7月17日 「吾妻」乗り組み

大正 6年12月  日 潜水艦乗り組み

昭和13年12月  日 侍従武官

昭和16年12月 8日 ハワイ真珠湾攻撃

昭和17年 7月  日 潜水戦隊司令官

昭和18年11月 8日 第二十二特別根拠地隊司令官

昭和19年 8月23日 呉潜水学校校長

昭和20年 5月  日 第六艦隊司令長官

昭和20年 8月15日 大東亜戦争終戦

昭和21年12月  日 オランダ当局から逮捕命令/巣鴨に収監

昭和22年 2月  日 オランダ軍事法定で裁判/蘭領ポンチャナック

昭和22年 9月22日 最終裁判

昭和22年10月 3日 死刑判決

昭和22年12月 6日 死刑執行(享年56歳)

 

轟隊伊36潜出撃記念写真(前列右から四人目)

 

  

轟隊伊165潜出撃記念写真(前列中央)                  轟隊伊165潜出撃前の訓辞

 

終戦直後

醍醐中将は、第六艦隊で保管する約五万円の機密費の使途について、一円たりとも私せず有効

に使用したいとの意向を示した。

この機密費は、昭和21年初から春にかけて幕僚達の手により或いは郵送で、醍醐中将の弔辞、

香料とともに回天特攻隊員の霊前に捧げられた。

醍醐中将が回天戦没者のご遺族へ送付した弔辞

 

オランダ軍事裁判

醍醐長中将は昭和十八年十一月八日からの約九ヶ月間、第二十二特別根拠地隊司令官として

ボルネオのバリックパパンにいた。当時現地の華僑が抗日陰謀を企画し日本陸海軍部隊が壊滅

されそうな形勢となり、自軍の安全維持上当然しかるべき手段として処理作戦を行った。

戦後、これが大きく取り上げられ戦争犯罪人の裁判を受けた。

醍醐中将は弁護上自分に有利な事実があっても、他に累の及ぶ資料を取り上げることを一切拒

み、あくまでも最小限度の犠牲で解決を図った。

この裁判は一方的な物であり、醍醐中将の冤罪は疑う余地がない。

 

遺書

皆様長い事御世話になりまして有難う。九月二十二日約三時間の裁判あり、十月三日約五分間で

判決、死刑の宣告を受け、十二月六日午前八時死刑執行の旨、昨十二月四日午前申渡されまし

た。別段心の乱れることもなく、案外平常と異ならず誠に有難く思っております。

嘆願書誠に有難う。感涙にむせび拝読しました。

(中略)

何卒日本再建の各自の使命に全力を注がれ度し、私も霊界より又何遍も生れかはり、日本再建

に全力を注ぐつもりです。

私の部下の戦死者遺族達の事も心に留められ度し。

 

最期

昭和22年12月 6日午前 8時、醍醐中将はポンチャナック監獄で銃殺された。

目隠しを拒否。黒色の洋服を着用し、羅紗の帽子を被り、泰然自若として刑場に臨み、国歌

「君が代」を高らかに歌い、「天皇陛下万歳」を三唱した。

次いで十二名の銃手によって一斉に射撃が行われ、醍醐中将は刑場の露と消えた。

 

靖國神社

東京都千代田区

醍醐中将 軍帽

 

果断の提督    回天特攻隊    軍事裁判

更新日:2005/06/17