抑留者引揚 浦 賀

 

昭和20年10月 7日に入港した氷川丸を第一船とて、以後フィリピン他の南方の島々から

56万余人の引揚者が上陸した。しかし引揚者の多くが栄養失調・マラリヤに罹っており、や

っとの思いで故国に辿りつきながら死亡した者も多かった。

昭和21年 3月、中国南部から浦賀へ航行していた引揚船の船内でコレラが蔓延、GHQは

上陸禁止の措置をとりピーク時は20隻以上が沖合いに停泊、10万人の引揚者が足止めさ

れ、旧海軍対潜学校を利用した検疫所では体制を増強して防疫に当った。

引揚者の死亡者は約2,000名、うち500人余がコレラによるものと云われている。

 

長安寺

神奈川県横須賀市

浦賀引揚援護局引揚者精霊塔

 

浦賀桟橋

神奈川県横須賀市

陸軍桟橋

説明板

この海岸線は浦賀の海の玄関口であり、歴史を語るうえで、重要なスポットである。L字形の

桟橋は、通称・陸軍桟橋と呼ばれ、昭和10年代に出来たものである。

太平洋戦争終結後、この桟橋に南方からの引揚者が数十万人上陸し、帰国の第一歩を印した

思い出深い桟橋である(後略)。

 

千代ヶ崎

神奈川県横須賀市

浦賀引揚援護局 跡

 

抑留者引揚

更新日:2004/12/05