抑留者引揚  鹿児島

 

略史

昭和20年 9月18日 鹿児島(加治木)、上陸港に指定

昭和20年11月24日 鹿児島地方引揚援護局を設置

昭和22年 2月 1日 鹿児島地方引揚援護局を廃局

 

錦江地区

鹿児島県姶良郡加治木町

引揚船入港の地 加治木

碑文

加治木は一九四五年十月二十九日より同年十二月八日までの間 敗戦に伴うアジア・太平洋各

地からの軍人・軍属及び一般邦人の引揚地であった。

翌年六月の一部上陸者を含めて 加治木に二万六千七百八十人が上陸した。その場所は此処よ

り西南方約一・五キロメートルにある三の水門近くで 二度の台風で決壊していた錦江湾岸の

堤防上であった

戦後五十年に際し 上陸後 南九州病院や錦江小学校等の収容所で死去した三百有余の悲運の

人々のために 吉祥寺墓地に慰霊碑を建立し 慰霊祭を挙行するため加治木町民に浄財の御寄

付を願った処 沖縄県御遺族からの分も合わせて その総額は二百万円を超えた

上陸地点その他の適地を検討したが 時間的経過も考慮し 此処に記念碑を建立し 加治木が

引揚船入港の地であった歴史を永く後世に伝えるとともに 引揚の悲劇を二度と繰り返さない

ことを決意し アジア・太平洋をはじめとして 世界の諸民族との友好互恵共存の実現を強く

訴えるものである

一九九八年十月二十九日 第一船入港の日に 加治木港引揚死没者慰霊祭実行委員会

 

三の水門

鹿児島県姶良郡加治木町

引揚者の上陸地点

 

引揚者の上陸地点

 

吉祥寺墓地

鹿児島県姶良郡加治木町

引揚死亡者慰霊碑 魂

墓碑由来記

昭和二十年十月末より十二月初めにかけて 加治木は南方諸地域 中国大陸からの

引揚港とされた 別府川河口に近い木田新田地区海岸に 二万六千七百八十人が上

陸した

不幸にも三百十九人(三百四十二人ともいう)が上陸後 栄養失調およびマラリヤ

等の病気で死没した その大部分はフィリピンより帰国した沖縄県出身の一般邦人

であり またその殆どが十歳未満の子供たちであった

ここに葬られているのは 厚生省引揚援護局加治木出張所が置かれていた加治木療

養所及び帖佐療養所構内に埋葬されていたこれら死没者のうち やむを得ぬ事情で

引き取られなかった二百有余人の遺骨である 昭和二十八年の十二月頃に この地

に改葬されたものと考えられる なお 加治木療養所で 戦中 戦後の窮迫の時期

に 結核等で死没し 同療養所構内の墓地に葬られていた遺骨も合わせて同時に改

葬されていることを付記する

引揚第一船入港五十周年の本日 沖縄県より見えた遺族 多くの加治木町民の参加

の下 引揚死没者の慰霊祭を挙行した 加治木町民 南九州病院関係者 沖縄県関

係者から寄せられた多額の浄財をその資金に充てた

墓碑の由来を後世に伝えるため ここに本碑を建てその概略を誌す

平成七年十月二十九日 加治木港引揚死没者慰霊祭実行委員会

   国立療養所南九州病院

 

抑留者引揚

更新日:2012/09/01