南豫護國神社
愛媛県宇和島市
大正2年に宇和島藩主四柱を祀り「鶴島神社」と称したのが創始である。昭和20年には戦火により社殿以下主要な
建物を焼失し、復興に際しては西南の役以降に戦没した宇和島市・北宇和郡・南宇和郡の英霊七千余柱を合祀し、
昭和30年に「南豫護国神社」と改称した。
東宮殿下御野立所 賽銭箱の菊花紋
大和田建樹先生歌碑
碑文
歓呼の声に送られて今ぞ出で立つ父母の国
※大和田建樹
詩人、作詞家、古文学者、東京高等師範学校(現:筑波大学)教授
主な作品(唱歌)
鉄道唱歌、散歩唱歌、故郷の空、青葉の笛、四条畷、楠公父子、その他多数
主な作品(軍歌)
日本陸軍、日本海軍、黄海海戦、日本海海戦、閉塞隊、第六潜水艇の遭難、他
ニューギニア方面戦没者慰霊碑
碑文
1941年(昭和16年)12月に勃発した第二次世界大戦に於て、当初は各地とも赫々たる戦果をあげ、故国から
数千粁も離れた南海の諸島までも占領しました。
しかし、1942年(昭和17年)6月ミッドウェー海戦の敗戦を契機に米軍の反攻はガダルカナル島の奪回作戦に
はじまり、わが軍はラバウルを中核基地として航空戦の総力をあげて死闘を繰り返しましたが補給が続かず7千
数百機を失い制空、制海権は完全に米豪軍の手にわたりました。
特に文明文化から取り残され世界の唯一の秘境と言われたニューギニア戦は南海支隊のポートモレスビー攻略
作戦の挫折にはじまった玉砕、撤退、その後ダンピール海峡で全輸送船の沈没により補給はたたれ見放された
戦場となり、「食べるに糧食なく、病魔に医療品なく、射つに弾丸なく」生命を維持し得ず戦う前に斃れてしまう者
もありて、すべて悲惨、凄惨、無念としか言いようのない慟哭の戦場と化した。
この戦場に参加して武運つたなく名誉の戦死をされた方は愛媛県に2千4百余名、当南予地方だけでも769名、
更にニューギニア方面となると約千名を数えます。
生還者僅か7パーセントで祖国の栄光と安泰を信じ散華された英霊の遺骨の未収集は東部ニューギニアのみで
約8万柱といわれ今なお異境の地で眠り続けているのです。
国としては平成5年度を目安に遺骨の収集に全力をあげています。
ニューギニアに出る月も故郷南予に出る月も一つで、その月を眺めて只管に望郷の想いにかられながらも、かく
悲惨なる戦を強いられ南海の涯に白骨となって眠り続けて再び還ることの出来なかった英霊の心情を思う時、故
郷南予の地で安らかに眠る場造りと碑の建設は多年の悲願であり、残された我々の務めである。
時恰もニューギニアで戦死された当初の方は五十年忌にあたり、その機会をとらえて、宇和島市南予護国神社の
この一隅を借り受け、「南予出身者ニューギニア方面戦没者慰霊碑」の建設がここに完成し、祖国の為めに散りし
戦没者を暖かく迎え入れて、ご冥福をお祈りすると共に之を後世に伝えて二度と再びこのような戦争を繰り返すこ
とのないよう人類の恒久平和を祈願する。
平成5年(1993年)6月吉日 南予出身ニューギニア方面戦没者慰霊碑 建立委員会
更新日:2008/09/21