亜細亜独立 ビルマ
支那事変当時、中国・蒋介石軍の物資調達は、英国からビルマを通じて行われていた。日本はビルマ・ルート
を立ち切るためにビルマの独立を画策し、鈴木敬司陸軍大佐はビルマ独立の志士:ウォン・サン、ラミヤンと
秘策を練った。
昭和16年2月、鈴木大佐を長とする「南機関」を設立、バンコクで140名の精鋭からなる「ビルマ独立義勇軍
(BIA)」を編成した。日本軍のビルマ進撃と共にBIAへの志願者は増え続け、27,000人にも達した。
シッタン河畔を行く日本軍 ラングーンに入場する日本軍
鈴木大佐は、一時も早いビルマ独立を参謀本部に進言したが、参謀本部はこれを認めず鈴木大佐に北海道
への転属を命じた。鈴木大佐の転出を嘆き悲しんだBIAは、肖像画と刀剣に添えて感謝状を贈っている。
「我等はビルマ独立軍の父、ビルマ独立軍の庇護者、ビルマ独立軍の恩人のことを忘れない。たとえ世界が
忘れるとも、我々の感謝の心が滅びる事は無い。」
鈴木大佐の肖像画(部分) 鈴木大佐に対する感謝状
戦後、鈴木少将(進級)はB級戦犯としてラングーンに送られ、英国の軍事裁判にかけられたが、元BIAの隊
員の猛反対により無罪となって帰国した。
昭和23年 1月、ビルマは英国から独立を果した。
更新日:2002/10/20