憂国の烈士

 

敗戦降伏の日、自決した日本人は国内外を通じて多数にのぼり、それは軍人・軍属に限らなかった。

東京の集団自決だけでも、8月22日には尊攘義軍10人が手榴弾で自決(その5日後、夫人3人が

後を追って自刃し2人が死亡)、翌23日には明朗会12人が自決、25日には大東塾14人が古式

に則り割腹自決を遂げた。

 

愛宕神社

東京都港区

殉皇十二烈士女之碑

碑文

昭和二十年八月廟議降伏に決するや決起して内府木戸邸を襲ふ 転じて愛宕山に篭り所在の同志と呼応

天日を既墜に回さむとする者 即ち尊攘義軍十烈士

しかれども遂に二十二日午後六時 相擁して聖寿万歳とともに手榴弾を擲ち一瞬にして玉砕す 時俄に

黒風暴雨満山を蔽ふ

二十七日払暁 同じき処に座して二夫人亦従容後を遂ふ

忠霊芳魂 永遠に此処に眠る 遺烈万古尽くる時なからず

 

天なるや秋のこだまかとこしえに愛宕のやまの雄たけびのこゑ

 

殉皇十二烈士女之碑

 

自決の地

 

大長寺

東京都府中市

明朗会十二ヶ烈士忠魂之碑

碑文

明朗会は日本伝統の神儒物三教融合の精神に則り 一切の行動を けて国体護持の信念を貫く

大東亜戦争終戦の詔下るや会長日比和一外十一名は皇祚の無窮を祈りつつ皇居前に於いて自決

せり

時に昭和二十年八月二十三日午前十二時なり

昭和四十一年八月二十三日  有志一同建立

 

日比和一会長 遺書の碑

遺書

仁愛なる陛下 冀わくは臣民一億をして再び国体護持の征戦を立たしめ給え

 

代々木公園

東京都渋谷区

大東塾十四烈士自刃の処

碑文

昭和二十年八月二十五日早暁 元代々木練兵場の一角なる此の処に於いて 塾長代行影山庄平翁以下

十八歳の少年に至る十四名の大東塾々生 古式に則り一斉に壮烈極まりなき割腹自刃を遂げ 以て大

東亜戦争の大難に殉じ祖国再建の尊き人柱に立つ

昭和五十六年八月  遺族並に大東塾京二歌道会一同建立

 

十四烈士共同遺書

清く捧ぐる吾等十四の皇魂誓って無窮に皇城を守らむ

 

影山庄平翁辞世歌

こんとんをひらきて今や大地の始発の時と祈り行くなり

國うれふやたけ心のきはまりて静かなるかも神あかるとき

 

大東塾十四烈士自刃の処

 

自決の地

 

赤間神宮

山口県下関市

大東塾十四烈士之碑

碑文

昭和二十年八月二十五日早旦、東都明治神宮外苑代々木原の一隅において、大東塾塾長代行、

影山庄平翁以下十三名の塾生らは「清く捧げる吾ら十四柱の皇魂誓て無窮に皇城を護らむ」と

の共同遺書を認め、神道の古式に基づいて割腹自刃、日本再建維新の人柱となられました。

大東塾塾長であり十四士の道師であった方が影山正治先生です。昭和五十四年五月二十五日楠

公祭早旦元号法制化の実現に依る戦後日本のよみがえりを熱祷され、東京都青梅市にある勤皇

村大東農場に鎮祭されている大東神社裏の丘において皇居を遥拝しつつ自刃されました。

大東塾は、明治維新の原動力となった神道国学歌道の精神を受け継ぎ、昭和の世直しを祈念し

て昭和十四年に創立されました。

現在その大東塾と一体的関係で和歌の修練を通して日本人の心を高めることをめざす全国規模

の組織として不二歌道会があり、その山口県支部により碑が建立されました。

不二歌道会 山口県支部


 

影山正治辞世歌碑

碑文

民族の本つ いのちのふるさとへ はやはやかへれ 戦後日本よ

 

八月十五日    世紀の自決

更新日:2013/03/17