講和条約
サンフランシスコ平和条約
昭和26年9月18日、日本と連合国とで締結された大東亜戦争の講和条約。
ポツダム宣言に基づき、北海道、本州、四国、九州を除く一切の領土を取り上げられ、軍備撤廃、賠償支払
などが規定された。
日本は全権として吉田 茂首相を送り、連合国48ケ国と調印。昭和27年4月、発効。
米国政府の対日政策の基本
. 侵略戦争を遂行した権力及び勢力の永久除去
. 戦争遂行能力の破砕、日本国軍隊の完全武装解除
. 平和的傾向を有し且つ責任ある政府の樹立
対日講和は、1.当事国、2.国際連合、3.領域、4.安全保障、5.政治的及び通商的取極、6.請求権、7.紛争
の七原則に基づき締結された。
請求権
すべての当事国は、1945年9月2日前の戦争行為から生ずる請求権を放棄する。
但し、一般に連合国がその地域内にある日本人財産を保有する場合、日本が連合国人財産を返還または現状で
回復できないとき、喪失価格の協定された割合を補償するために円を提供する場合を除く。
米国の対日講和構想に対してアジア・太平洋諸国は、軍備制限条項が盛り込まれなかったこと、賠償請求権が否
定されたことに強く反発した。
オーストラリアとニュージーランドは、特に軍備制限条項が無いことに不満を表明した。
これに対しアメリカは「我々は中国−日本−ロシアの共産主義支配連合の可能性を阻止しなければならない。軍
備制限をつけない対日講和条約は、これを阻止することになろう。」と、冷戦の論理で反論した。
フィリピンは、日本による占領と激しい陸戦によって多大な戦争被害を受けた。賠償請求権の放棄に対して政界は
もとより民衆からも強い反対の声が上がった。これに対しアメリカは「安定的で健全な日本が、この地域における利
益につながるとの信念によっている。もし仮に日本の工業潜在能力や人的資源がソビエトと中共にわたたったら、
フィリピンは深刻な危機にさらされるだろう。」と脅迫とも取れる説得をした。フィリピン上院は対日講和条約を承認
せず、昭和31年に日比賠償協定が締結されるに及んで講和条約も承認した。
これ以外の戦争当事国が、アメリカに直接不満を述べる機会は無かった。
中国は、昭和24年の革命により中華民国から中華人民共和国に変わった為に、条約の対象国とはならなかった。
朝鮮は、日本の敗戦と共に独立し、昭和23年に大韓民国・朝鮮民主主義人民共和国という分裂国家を成立させた
為に、戦争当事国とはされず対象国とはされなかった。
インドネシア、インドシナ諸国は、独立運動のさなかで積極的な関与ができなかった。
アジア太平洋の諸国は、アメリカの講和条約案に反対する意見が強かったが、アメリカの支援を必要とする国家
事情から強く反対できず、国際的な発言力もほとんど無かった。
インド、ビルマ、ユーゴスラビアは参加を拒否。
ソ連、ポーランド、チェコは参加したが調印を拒否している。
ジャヤワルデネ/セイロン首相
昭和26年9月、サンフランシスコで開かれた対日講和会議で、スリランカ民主社会主義共和国のジュニアス・リ
チャード・ジャヤワルデス前大統領は、日本と日本国民に対する深い理解と慈悲心に基づく愛情を示した。
ジャヤワルデス前大統領は、この講和会議の演説にブッダの言葉を引用した。
実にこの世においては怨みに報いるに怨みを以てしたならば、ついに怨みの恩むことがない。
怨みをすててこそ恩む、これは永遠の真理である。
ジャヤワルデス前大統領は、講和会議出席各国代表に向って、日本に対する寛容と愛情を説き、日本に対して
スリランカ国(当時・セイロン)は賠償請求を放棄することを宣言した。
さらに「アジアの将来にとって、完全に独立した自由な日本が必要である」と強調して一部の国々の主張した日本
分割案に真向から反対して、これを退けた。
日米安全保障条約
米軍の日本駐留を無期限に認め、破棄にはアメリカの承認を必要とする不平等、かつ片務的な条約。
サンフランシスコ平和条約の調印と同じ日、吉田 茂首相により調印された、
日米安全保障条約の前文
日本国はその防衛のための暫定措置として、日本国に対する武力攻撃を阻止するため、日本国内及びその付
近にアメリカ合衆国がその軍隊を維持することを希望する。
マッカーサー連合国軍最高司令官
昭和26年、マッカーサーは米上院議院の軍事外交合同委員会で次の証言をしている。
「日本は絹産業以外に国有の産物は殆ど何も無い。彼等には、羊毛が無い。
石油の産出が無い。錫が無い。その他実に多くの原料が欠如している。もし、これらの原料の供給を断ち切られ
たら、一千万から二千万の失業者が発生するであろうことを、彼等は恐れていた。したがって彼等が戦争に飛び
込んでいった動機は、大部分が安全保障の必要に迫られてのことだったのです。」
つまりマッカーサーは、日本は侵略戦争をしたのではなく、生きるため自存自衛のための戦いをした、
と言っているのである。
ククリット/タイ首相
日本のお陰でアジア諸国は全て独立した。今日われわれが米英と対等に話ができるのは、一体誰のお陰である
のか。それは日本という母親がいたからである。母親は難産して母体を損なったが、生まれた子供はスクスクと育
っている。昭和20年12月8日は身を殺して仁を成した母親が一大決心をした日である。われわれはこの日を決
して忘れることは無い。
高徳院(鎌倉の大仏)
神奈川県鎌倉市
碑文
箱根神社
神奈川県足柄下郡箱根町
由来
今上陛下の立太子礼と日本の独立(講和条約締結)を記念して昭和27年に建立された。
昭和39年に至り、御鎮座1200年と東京オリンピック開催を奉祝記念し、「平和」の扁額が掲げられた。
揮毫は、講和条約の全権特命大使として調印した吉田茂元首相の真筆になるもので、それ以来「平和の鳥居」
と呼ばれている。
平和の鳥居
彰考館 徳川博物館
茨城県水戸市
由来
水戸徳川家の第13代当主・圀順の弟で、サンフランシスコ条約調印の全権委員であった徳川宗敬によって
記念に持ち帰られた「松」が、静かに年輪を刻んでいます。
更新日:2011/11/20