満蒙開拓団

下志津原開拓団

 

略史

戦後、 千葉県下志津原の軍用地は食糧増産を目的として開墾地となり、昭和20年9月に下志津原

開拓団が結成された。

当初は軍人を中心として下志津原開拓団が結成され、野戦砲兵学校・下志津飛行学校・戦車学校等

の関係者がそれぞれ組合を結成して開拓を始めたが、関東ローム層の固い土質と農業未経験者が

多かった事で困難が予想され、そこで開拓の指導を満蒙開拓青少年義勇軍内原訓練所に要請した。

内原訓練所からは、終戦で渡満が中止となり残留していた千葉県中隊の約180名が食料増産隊とし

て、基幹学校中隊の約170名が報徳農工補導所を設立して、約350名の生徒が派遣され入植した。

 

一方、陸軍に土地を接収された周辺農家にとっても使用されなくなった演習地の使用は切実な要求で

あり、双方の間で紛争が起こったため千葉県が調停に入り、下志津原の中心部が軍関係者、周辺部

が周辺農家に割り当てられた。

 

昭和21年4月、下志津原開拓団は解散となり、各分団は独立してそれぞれ帰農組合を結成し、個人

経営に向けて地区割りを行った。

満蒙開拓青少年義勇軍内原訓練所から入植した生徒は大日帰農組合に所属したが、6月に基幹学校

中隊(報徳農工補導所)が鹿放ヶ丘農事実行組合として分離独立した。

千葉県中隊は地区割りで富士見ヶ丘へ入植したが、家督後継者の戦死で親が迎えにきたり、帰省した

まま戻らない生徒が続出し、最終的に36人だけが残留して武井班と呼ばれ、一部はそのまま下志津

原に留まって大日富士見ヶ丘の開拓農民となっていった。

 

鹿放ヶ丘神社

千葉県四街道市

鹿放ヶ丘神社

説明版

この地は、昭和二十年の太平洋戦争終結により、満州開拓から内地開拓に転進した「満蒙開拓青少年

義勇軍・基幹学校」の生徒を主体とする「鹿放ヶ丘開拓」の人々が心の拠り所として創立した「宗教法人。

鹿放ヶ丘神社」の境内地である。

 

祭神

豊受大神

 

神社の歴史

昭和二十年十月 戦後開拓地となった旧陸軍演習場下志津原に開拓支援として 旧満州開拓青少年

義勇軍内原訓練所基幹学校訓練生が百二十余名来ました その殆どが十代中後半でした

後日入植となり 下志津原のほぼ中央部分約二百六十町歩が割り当てられました

六年後、急速に新しい家族が生まれて 地域としてのシンボルが欲しいとの考えから 神社の建設 そ

して行事として運動会を考え 昭和二十八年十月十日には仮宮で祭典 グランドで運動会を行い 翌年

昭和二十九年に 社建設を致しました

 

下志津原開拓総鍬入之地

 

神殿

 

神殿

 

境内から見たグランド

 

幹和会記念碑

碑文

昭和十二年十二月閣議で決定された「青少年開拓民実施要領」に基づき翌年三月に茨城県の

内原に満蒙開拓青少年義勇軍訓練所が開設され第一次訓練生が入所した。

この年の九月に幹部指導員を補佐し、訓練生の中核となる人材を養成する目的をもって「准幹

部養成所」を開所した。

昭和十四年に高井 篤主任を迎えて漸く本格的訓練を実施し、十五・十六年の准幹部の生徒は

国内と満州・北支において開拓実習と教育研究を行った。この実績を踏まえて十七年の一年間

は更に研鑽を加え、十八年に三年制の教育機関に組織を改め「基幹学校」と改称し、二十年に

至るまでの三年間、旧制農業学校に準ずる教育訓練の使命を果たした。准幹部の生徒は、中隊

付小隊長として配属される者、凌雲開拓団指導員養成所予科、訓練所助手に進む者、そののち

軍に入隊する者等もあり、そこでそれぞれ終戦を迎えた。基幹学校の生徒は凌雲開拓団と郷向

導訓練所に移った者以外は在校のまま終戦を迎え、そのうちの百余名が高井 篤を「おやじ」とし

て内地開拓を志し、千葉県下志津原のこの地鹿放ヶ丘に集団入植した。

昭和四十九年に准幹部養成所、基幹学校出身者が相計り「幹和会」を組織して三年に一度の慰

霊祭と大会などにより旧交を温め続けている。

ここに第八回幹和会大会を迎えるにあたり地をトし碑を建てる。

平成七年五月吉日  加倉井 正撰文謹書

 

鹿放ヶ丘農苑開拓二十五周年記念碑 生命の開花

 

満蒙開拓団

更新日:2010/10/11